君の手が動く限り、俺は隣にいたいから

 背後で聞こえる怒鳴り声を無視して、凌は昇降口へと駆け込んだ。忙しなく靴を履き替えると、そのまま教室まで走る。
 前扉を勢いよく開けると、三十人近い視線が一斉にこちらへ向いた。

「お、噂をすれば。遅刻だぞー、藤代ー」

 間延びした声でそう言ったのは、担任の大河内だった。
 三十代半ばくらいの、やたらと緩い空気を纏った男で、黒板の前に立ちながら出席簿をぱたぱたと扇代わりにしている。

「すんませーん」

 教室のあちこちから小さな笑いが漏れた。
 凌は軽く舌打ちを噛み殺しながら、自分の席へ向かった。
 窓側後方、一番後ろから二列目。悪くない場所だ。
 椅子を引いて腰を下ろすと、ようやく肺の奥に溜まっていた熱が抜けていく。

(……だりぃ)

 机に突っ伏したい衝動を堪え、ぼんやりと窓の外を見る。
 グラウンドでは運動部らしい上級生が朝練をしていて、掛け声が風に乗って聞こえてきた。

「はいはい、ホームルーム始めるぞー」

 大河内がパン、と手を叩くと、騒がしかった教室が少しずつ静かになった。

「今日から通常授業な。居眠りするなよー。あと提出物出してない奴、今日中。特に藤代」
「なんで名指しなんすか」
「出してないからだ」

 不機嫌極まりない凌の文句に、大川内は笑い半分で即答した。すると、教室の中ではまた笑いが起きる。
 凌は面倒そうに頬杖をついた。
 まだクラス全員の顔も名前も覚えていないが、こういう空気だけは嫌でも分かる。
 教師にいじられる側。
 入学三日目にして、完全にそのポジションが確立されていた。

「で、本題だ」

 大河内が教卓の上に積まれていた冊子の束を持ち上げる。

「今日の六時間目、部活動紹介あるからなー。その案内パンフレット配るぞ」

 前の列から順番に、ホチキス留めされた冊子が回されてきた。
 凌の机にも、一枚の色付きの表紙が滑り込んでくる。
『野球部』『吹奏楽部』『剣道部』『軽音楽部』などなど……。
 ページを捲ると、どれもやたら気合の入った写真と文句が並んでいた。
 写真を使用している部活は実際の練習風景を映していて、こうして見ている分には楽しそうに見える。

「うわ、青春してんなぁ……」

 思わず漏れた呟きに、前の席の男子が振り返った。

「藤代、なんか入るの?」

 短く刈った髪の、いかにも人懐っこそうな男子だった。
 確か名前は三崎とか言った気がする。

「いや、入んね。部活とかダルいし」
「えー、帰宅部?」
「その予定」

 即答すると、三崎は「マジかー」と笑った。
 いかにも野球少年と言った風貌の三崎は、当然野球部に入るつもりなのだろう。彼の冊子は野球部のページが開かれたままになっている。

「でもさ、この学校って部活入ってる奴多いらしいぜ?」
「へぇ」

 興味なさげに返しながら、凌は配られた冊子をぱらぱらと捲る。
 どの部活動も新入生を集めることに必死なのだろう。手の込んだデザインばかりが目を引く。

(ん――)

 そんな中、ふと、あるページで捲る手が止まった。
 書かれていたのは、『美術部』の文字。
 美術部を謳っている割に、そこには絵など一つもなく、ただ無機質な文字が並んでいるだけだった。活動日、時間、新入生募集の文句のみ。
 周りの熱量から浮き上がったあまりにも不自然なそのページに、凌の視線は釘付けになっていた。