君の手が動く限り、俺は隣にいたいから

 だから凌はそれ以上言葉を重ねるのをやめて、再び沈黙を選んだ。
 しばらく、重苦しい静寂が周囲を支配する。
 その中で凌はふと思い出したように、コートのポケットへ手を差し入れた。中から取り出したのは、一冊の薄い冊子。
 何度も何度もカバンから出し入れしたせいで、四隅の角が少しだけ丸く擦り切れている。
 彼がこの数ヶ月、数え切れないほど捲ってきた跡が残るその冊子を、碧南が不思議そうに視線で追った。

「それ……あの日、会場で配られたパンフレット?」

 凌は何も答えないまま、乾いた音を立ててページを開いていく。
 高校生芸術コンテスト。あの秋の日、自分の人生を大きく変えたあの展示会のパンフレットだった。
 風景画部門・最優秀賞のページには、確かに藤代凌の不器用な青空が印刷されている。
 けれど、凌の指が止まったのは、そこではなかった。
 さらに数ページ前、歴代の最優秀賞受賞者が記録されている特設ページ。
 碧南は息を呑み、その瞳を大きく見開いた。
そこに掲載されていたのは、印刷越しでもなお圧倒的な引力を持った、一枚の果てしない青空だった。
 数年前の受賞作品。制作者の名前は――春原澄朱華。
 かつて碧南が狂信的に憧れ続け、そして今、この冷たい墓の下で静かに眠っている人の最高傑作。
 凌はそのページを大きく開き、真っ直ぐに墓石の前へと向けた。

「この人の絵さ」

 静かに、けれど確かな熱を込めて凌は言う。

「あの日、廊下で初めて見た時、どうしても目が離せなかったんだ。閉じようとしても、ページが捲れなくてさ」

 碧南は何も言わない。ただ、膝を抱えたまま、凌の言葉をじっと聞き入っている。

「最初の頃は、なんでか理由が分かんなかった。技術が凄いとか、色彩の知識があるとか、そういうのもあるんだろうけど」

 凌は小さく首を横に振った。

「そんな理屈じゃねぇんだよな」

 絵なんて退屈な暇潰しだと思っていた昔の自分なら、絶対に言葉にできなかった。
 けれど、碧南に出会い、彼女の苦しみを知り、自分も狂ったように空を描き続けてきた今なら、確信を持って言えることがあった。

「この人は、ただの風景としての空を描いてたんじゃない」

 ページの中に広がる、今にも泣き出しそうな青を見つめながら、凌は言葉を紡ぐ。

「空を見上げた時に、その胸の奥で感じた『生きてる感覚』そのものを描いてたんだ」

 碧南の瞳が、冬の陽射しの中で大きく揺れた。

「だから、何年経って今こうして見ても、俺達に真っ直ぐ伝わってくる。この人は、誰よりも絵が描きたかったんだって。最後の最後まで、自分の生きた証を遺したかったんだってさ。……きっと、死にたくて死んだんじゃねぇよ」

 凌は、バタンと音を立ててパンフレットを閉じた。

「だから、肉体が死んだとしても、この人の青は一ミリも消えてねぇ」

 その瞬間、再び激しい冬の風が二人の間を吹き抜けた。
 墓前に供えられた白い花びらがサワサワと激しく揺れ、その向こうで、冷たく澄み切った大天空が何処までも広がっている。
 凌は真っ直ぐにその空を見上げた。

「少なくとも」

 不器用な、少しだけ照れくさそうな笑みが、凌の口元に浮かぶ。

「俺は、この人の絵に、そしてこの人の青に、人生をめちゃくちゃに変えられたからな」

 その真っ直ぐな言葉は、墓の下で眠るかつての天才へ向けたものだったのか。
 それとも――いま自らの隣で、涙を堪えるようにして空を見上げている、愛おしい碧南へ向けたメッセージだったのか。
 それは凌自身にも、正確には分からなかった。
 ただ、一つだけ。この世界で絶対に揺るがない確かな事実が、そこにはあった。
 命を燃やして空を描き続けた先輩の青は、碧南という少女を経由して確かに今、凌という一人の人間の中へと、脈々と繋がっていた。