長くも短い夏休みはあっという間に終わり、すぐに二学期が始まった。
今までと何も変わらない、つまらない毎日が始まったのである。
「……てなわけで、最終的に榎本武揚が降伏して五稜郭は開城。戊辰戦争が終わったわけだ」
二学期が始まって二週目に入った今も実感が湧かない。
今でもあの人達がいるような気がして、帰る場所に帰れば出迎えてくれる気がして。
この時代の方が夢なのではないかと思ってしまう。
「――さて」
先生が教科書を閉じた音が、やけに大きく響いた。
「戊辰戦争は“旧幕府軍の敗北”で終わったと簡単に言えるが、最後まで戦い続けた者達は何を思っていたのか。そこが大事だ」
黒板にチョークが走る。
五稜郭。
箱館。
榎本武揚。
白い文字が並ぶたび、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
敗北。
降伏。
終戦。
そんな数文字で終わるものではなかった。あの日々は、一言では言い表せるはずがない。
「結城」
不意に名前を呼ばれ、雪華は慌てて顔を上げる。
教室がざわついたのは無理からぬこと。普段は空気のような存在の雪華に先生が質問することなど、今まで無かったから。
「は、はい」
「榎本武揚が降伏を決断した理由を説明してみろ」
いつもなら、適当に教科書を目で追い、曖昧な答えを口にしていた。
歴史なんて、ただの暗記科目だと思っていた。
けれど、今は違う。
ゆっくりと立ち上がり、真っ直ぐと先生の目を見た。
教室の窓から、夏の終わりの光が差し込む。
「……これ以上、無益な犠牲を出さないためです」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「新政府軍との戦力差は明らかで、箱館を守りきることは困難でした。だから榎本さんは、共和国の存続よりも部下達の命を優先した」
教室が静まり返り、誰も口を挟むこともしない。
雪華は淡々と、教科書の文ではなく見てきた歴史を口にした。
「また、降伏後に海軍の人材を新政府に活かす道を選んだのも、日本の未来を考えての決断でした」
言い終えた瞬間、心臓が大きく鳴った。
――未来。
あの人達が見られなかった未来。今、自分が立っているこの場所。
先生が目を丸くして固まる。ほとんど答えられないと高を括って恥をかかせる気だったのだろう。
「……あの結城が授業を聞いてる」
前の席から小さな笑い声が漏れた。
けれど、先生はすぐに咳払いをし、満足そうに笑って頷く。
「正解だ。よく勉強しているな」
「……いえ」
勉強なんてしていない。ただ、知っているだけだ。
あの風の匂いも。
あの銃声も。
あの人達の最期の言葉も。
先生は愉快げに笑みを浮かべたまま黒板に追加の説明を書き始めた。
チョークの音が、現実を刻む。
雪華は静かに席に座り、ノートを開いてペンを持つ。手は震えていない。
薄いピンク色の可愛らしいシャーペン。夏休みの最終日、祖母が買ってくれたもの。
浅葱色の小さなキーホルダーがさり気なく揺れた。
(あの人達がいないと、駄目だ……)
今でもそう思う。
あの場所が、あの時間が、恋しい。
けれど、雪に生きろと言った人がいた。
最後まで抗え、と言った人がいた。
ならば、この時代で自分は生きなければならない。逃げるのではなく、前を向いて。
ふと窓の外を見る。校庭の端に、桜の木が立っていた。
季節外れの青葉が、風に揺れている。春になれば、また咲くのだろう。
何度でも。
散っても、また。
雪華は、そっとノートに一行書き加えた。
『凍つる風 あなたの隣だけ あたたかい』
殴り書いたその一行を見つめながら、小さく息を吐く。
「……ちゃんと、生きるよ」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
今までと何も変わらない、つまらない毎日が始まったのである。
「……てなわけで、最終的に榎本武揚が降伏して五稜郭は開城。戊辰戦争が終わったわけだ」
二学期が始まって二週目に入った今も実感が湧かない。
今でもあの人達がいるような気がして、帰る場所に帰れば出迎えてくれる気がして。
この時代の方が夢なのではないかと思ってしまう。
「――さて」
先生が教科書を閉じた音が、やけに大きく響いた。
「戊辰戦争は“旧幕府軍の敗北”で終わったと簡単に言えるが、最後まで戦い続けた者達は何を思っていたのか。そこが大事だ」
黒板にチョークが走る。
五稜郭。
箱館。
榎本武揚。
白い文字が並ぶたび、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
敗北。
降伏。
終戦。
そんな数文字で終わるものではなかった。あの日々は、一言では言い表せるはずがない。
「結城」
不意に名前を呼ばれ、雪華は慌てて顔を上げる。
教室がざわついたのは無理からぬこと。普段は空気のような存在の雪華に先生が質問することなど、今まで無かったから。
「は、はい」
「榎本武揚が降伏を決断した理由を説明してみろ」
いつもなら、適当に教科書を目で追い、曖昧な答えを口にしていた。
歴史なんて、ただの暗記科目だと思っていた。
けれど、今は違う。
ゆっくりと立ち上がり、真っ直ぐと先生の目を見た。
教室の窓から、夏の終わりの光が差し込む。
「……これ以上、無益な犠牲を出さないためです」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「新政府軍との戦力差は明らかで、箱館を守りきることは困難でした。だから榎本さんは、共和国の存続よりも部下達の命を優先した」
教室が静まり返り、誰も口を挟むこともしない。
雪華は淡々と、教科書の文ではなく見てきた歴史を口にした。
「また、降伏後に海軍の人材を新政府に活かす道を選んだのも、日本の未来を考えての決断でした」
言い終えた瞬間、心臓が大きく鳴った。
――未来。
あの人達が見られなかった未来。今、自分が立っているこの場所。
先生が目を丸くして固まる。ほとんど答えられないと高を括って恥をかかせる気だったのだろう。
「……あの結城が授業を聞いてる」
前の席から小さな笑い声が漏れた。
けれど、先生はすぐに咳払いをし、満足そうに笑って頷く。
「正解だ。よく勉強しているな」
「……いえ」
勉強なんてしていない。ただ、知っているだけだ。
あの風の匂いも。
あの銃声も。
あの人達の最期の言葉も。
先生は愉快げに笑みを浮かべたまま黒板に追加の説明を書き始めた。
チョークの音が、現実を刻む。
雪華は静かに席に座り、ノートを開いてペンを持つ。手は震えていない。
薄いピンク色の可愛らしいシャーペン。夏休みの最終日、祖母が買ってくれたもの。
浅葱色の小さなキーホルダーがさり気なく揺れた。
(あの人達がいないと、駄目だ……)
今でもそう思う。
あの場所が、あの時間が、恋しい。
けれど、雪に生きろと言った人がいた。
最後まで抗え、と言った人がいた。
ならば、この時代で自分は生きなければならない。逃げるのではなく、前を向いて。
ふと窓の外を見る。校庭の端に、桜の木が立っていた。
季節外れの青葉が、風に揺れている。春になれば、また咲くのだろう。
何度でも。
散っても、また。
雪華は、そっとノートに一行書き加えた。
『凍つる風 あなたの隣だけ あたたかい』
殴り書いたその一行を見つめながら、小さく息を吐く。
「……ちゃんと、生きるよ」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。



