想いと共に花と散る

 目の前にあるのは、ただ一人。桜の幹にもたれ掛かるその人だけ。

「……土方、さん……」

 声が掠れる。風の音にすら掻き消されるその声に、返事は無かった。
 震える手を、ゆっくりと伸ばす。
 触れなければ。本当にここにいるのか、確かめなければ。
 頬に触れようと、指先が近づく。
 あと少し。 あと、ほんの少しで触れられる。

(冷たかったら……どうしよう)

 その考えが脳裏を過った瞬間、呼吸が乱れた。
 触れてしまえば、現実になる。
 目を背けていた可能性が、考えたくもないもしもが確定してしまう。
 後少しで触れたはず指先は、中途半端にも空中で止まる。もう限界だった。
 胸の奥から不快な何かがせり上がり、視界がぐらりと揺れる。
 指が震え、力が抜ける。下ろそうとした、その瞬間。

「……っ」

 落ちかけた雪の手首を、強くはないけれどはっきりとした力が受け止めた。
 ゆっくりと視線を下げると、自分の手を掴んでいるのは、血に濡れたあの人の手。
 震えているのは、どちらの手なのか分からない。

「っ……あ、ぁ………」

 やがて、桜の幹にもたれていた身体が僅かに動いた。
 閉じられていた瞼が、ほんの少し持ち上がる。細く開いたその隙間から、鋭い光が覗いた。

「……何を、してんだ」

 弱々しくて掠れているけれど、間違いなく土方のものである声が聞こえた。
 雪の喉から、声にならない音が漏れる。
 確かに目が合った。薄く開いた瞳が、真っ直ぐに雪を捉えている。
 怒っているわけでも、驚いているわけでもない。
 ただ、そこに“生きている”という事実があった。

「何故、泣いてる」
「ひ、ひじか………土方、さ……」

 浮かぶ言葉は山ほどあるのに、そのどれもがまともな言葉にならない。
 涙が視界を滲ませた。目の前の輪郭がぼやけて、存在すら曖昧になっていく。
 握られた手に、僅かな力が籠もった。

「来るなと……言ったはずだ」

 苦笑にも似た、微かな吐息が溢れ出した。
 けれど、その指は雪の手を離さない。離そうとしない。
 雪は、震えるもう片方の手で今度こそ彼の頬に触れた。
 温かい。確かに、温かい。
 その瞬間、今まで感じたことのない絶望は、形を変える。
 失うかもしれない恐怖へ。
 まだ間に合うかもしれないという、切実な祈りへ。

「隣に、いたかった……小姓なんかじゃなくていい………ただ…土方さんの隣にいたかったの」

 涙を零しながら、それでも真っ直ぐに言う。
 土方の瞳が、ほんの僅かに細まった。
 桜の花弁が、二人の間をすり抜けて落ちる。
 戦の音はまだ止まない。けれどその瞬間だけは、世界が静まり返っていた。
 繋がれた手が、確かにここにある。