想いと共に花と散る

 石段を踏み越えた瞬間、視界が開けた。
 銃声はまだ止まない。怒号も、鉄のぶつかる音も、すぐそこにある。
 けれど、確かにいるはずだった。
 雪の目は必死にその背を探す。黒と深藍の羽織。鋭い視線。誰よりも前に立つ、あの人。

「……え」

 声にならない音が喉から漏れた。
 白煙が風に流れる。
 戦場のざわめきが、ほんの一瞬だけ遠退いた気がした。
 視界の端に、桜の木がある。五稜郭の中庭に植えられた、季節外れの枝。
 花はとうに散っているはずなのに、何故かそこだけが淡く色づいて見えた。
 その根元に、黒い影が座っている。
 背を幹にもたせ掛け、足を投げ出し、片手は地に落ちたまま。

「……土方、さん?」

 呼吸が止まった。
 違う。あれは違う。あの人は立っているはずだ。
 立って、前を向いて、怒鳴って、誰よりも先に刃を振るっているはずだ。
 こんなふうに、力なく座っているはずがない。
 一歩、踏み出す。足音がやけに大きく響いた。
 近づくほど、現実が輪郭を持つ。
 胸元の黒が濡れている。トレンチコートの下、じわりと広がる色。
 雪の頭が、理解を拒んだ。

(違う違う違う……っ!)

 撃たれた?
 そんなはずはない。
 あの人が。あの鬼の副長が。誰よりも生き汚く、最後まで戦い抜くと信じて疑わなかった人が。
 膝が震える。視界が滲む。
 それでも止まれない。近づこうとする足は止まってくれなかった。

「……いや」

 今まで感じた恐怖とは違う。
 銃口を向けられた時の恐怖でもない。
 刀を振るう相手と対峙した時の緊張でもない。
 足元が、崩れていく感覚。
 世界が音を失っていく。自分の中にあった“何か”が、音もなく砕けていく感覚。

「……いや、だ」

 近づく。
 あと数歩。
 土方は目を閉じている。
 顔は穏やかで、まるで少し休んでいるだけのように見えた。
 その姿が、余計に残酷に思えて。
 戦場の只中にいるはずなのに、そこだけ時間が止まっている。
 目の前まで走って、すぐそこにいる彼を見ても何が起きているのか分からなかった。

「起きて……っ」

 声が震える。最早声ですら無かった。ほとんど息と変わらない声が喉から溢れる。
 今まで、何度も彼の背中を追いかけてきたはずだ。
 怒鳴られても、突き放されても、それでも隣に立ちたいと願ってきた。
 やっと来たのに。
 やっと、覚悟を決めてここまで来たのに。

「……嘘、だよね?」

 胸が締め付けられ、息が上手く吸えない。
 視界の端で、誰かが叫んでいる。まだ戦は続いている。けれど、雪の世界はもうその音を拾わなかった。
 ただ、桜の木にもたれ掛かるその姿だけが全てだった。
 もしも、ここで目を開けてくれなければ。
 もう二度と、その声を聞けないのだとしたら。
 それらに気付いた瞬間、雪の中で何かが完全に崩れ落ちた。
 今までに感じたことのない、底のない闇が広がる。
 絶望。
 戦に負けるかもしれない、という絶望ではない。
 自分が死ぬかもしれない、という恐怖でもない。
 “この人がいない世界”が現実になるかもしれないという、理解してはいけない未来。
 膝から力が抜け、立っていられなくてふらふらと座り込んだ。
 刀が手の中で重くなる。ゴトンと音を立てて落ちたのは、座り込むのと同時だった。

「……やだ」

 ぽつりと零れた声は、あまりにも幼かった。
 桜の枝が、風に揺れる。
 ひらり、と。遅れて咲いた一枚の花弁が、土方の肩に落ちた。
 それがまるで、終わりを告げる印のように見えてしまった。