想いと共に花と散る

 どんな浪士を相手にしても、恐怖の一つも覚えたことはなかった。
 斬り合いの最中に刃が頬を掠めようが、心が揺らぐことはない。ただ斬るか、斬られるか。それだけだった。
 だが、夜空に月が浮かんでいたあの日だけは違った。
 胸の奥を、得体のしれないものが掴んだのだ。

「あいつが笑うと、生きたくなる」

 低い独白が、廊下の夜気に沈んだ。
 鬼と恐れられた男にしては、あまりにも情けなく愚かな言葉である。

「生きて、帰りたくなる」

 戦場で幾度も死線を越えてきた男の声とは思えぬほど、微かに揺れていた。
 大鳥がゆっくりとした口調で問う。

「それは罪かい」
「罪に決まってる」

 何度も答えを言い淀んできた割に、その問いには即答できた。迷いも逡巡もない。

「俺はとっくに死ぬ側の人間だったんだ。鬼でいなきゃならねぇ」

 そうでなければ、新選組は保てなかった。近藤の隣に立ち続けることもできなかった。
 情を切り捨て、情に泣く者を切り捨て、鬼でいると決めた。

「それを、近藤さんの名を盾にしてあいつに縋った。守るって言葉を使えば、傍に置いても許されると思ったんだよ。副長の命令なら逆らえねぇ。そう分かってて、選ばせなかった」

 喉から絞り出した声が低く沈み、擦れて掻き消える。

「だから今更、守るなんざ綺麗事だ」

 吐息のように零れた言葉は、自嘲に満ちていた。
 これまでに仲間達に言ってきた言葉の全てが綺麗事だったと言っても良い。
 ずっと、副長という立場を盾にして、弱い自分を隠してきただけなのだ。

「そんなこと、無いと思うが」

 大鳥の静かで落ち着きのある声が、ほんの一瞬だけ揺れた。
 逸らされた視線は光を失い、微かな悲しみの色を滲ませている。

「あるさ……俺が怖ぇだけなんだ」

 乾いた笑い声が静かな廊下の空気に溶けて消えた。

「斬られるのも撃たれるのも構わねぇ。だが―――……あいつがいなくなるのだけは、怖ぇんだ」

 その一言だけが、妙に生々しい。
 他人に弱みを見せることを一番嫌い、見せてはならないと己を叱咤してきた者としてあるまじき一言だ。

「では、結城君が君を選んだのはどう説明する」

 即答すべきその問いには即答できず、長い沈黙が二人の間に流れた。

「……知らねぇ」

 誤魔化しでも嘘でもない。本当に、説明のしようがなかった。
 何故雪が己を選び、逃げ出さずに付いて来たのかなど。
 むしろこちらが聞きたいほどだ。逃げれば良いものを逃げずに、変わらす隣りにいることを選んだことに何の理由があったのか。

「俺なんざを選ぶ理由、何処にあったてんだ。鬼で、血塗れで、明日があるかも分からねぇ男に」

 握り締めた拳が僅かに震え、言葉が溢れて止まらない。
 自分ですら気づかずにいた本心を他人に暴露していることなど、あまりにも屈辱的であった。

「あのまま俺の隣にいりゃ、あいつの未来は削れていく。笑っていても、その先にあるのは戦と逃避行だけだ」
「それを彼女は望んだんだろう」
「望ませるようなことを俺はしたんだ」

 言い聞かせるように、低く続ける。

「俺は、あいつの未来を奪う前に自分から退いた」

 その決断を誇るでもなく、ただ事実のように。
 けれど、その声には隠しきれぬ未練が滲んでいる。断ち切ったはずの情が、まだ胸の奥で燻っているのだ。
 視線を伏せ、最後に静かに言った。

「だから俺は、あいつから離れることにしたんだ」