想いと共に花と散る

 言葉にしない代わりに、市村は一歩下がった。
 足音はほとんど響かないのに、その僅かな動きだけで距離がはっきりと広がったと分かる。

「……僕は、いなくなりません」

 静かな声だった。けれど、迷いのない響きが、夜明け前の冷えた空気の中に真っ直ぐ落ちる。

「結城さんが思っているより、僕は弱くないんですよ」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじくりと痛んだ。
 それは誰かを守るための強さではなく、ここから離れていくための決意のように思えた。
 伸び賭けた指先を思わず袖の中へ隠してしまう。
 浅葱の端に触れれば引き止められる距離にいるのに、触れてしまえば何もかも崩れてしまう気がしたのだ。
 だから、どうしても動けなかった。
 重く沈んだ沈黙を破ったのは、砂利を踏みしめる硬い足音だった。

「何をしてんだ」

 低くよく通る声に、振り返らなくても誰なのか分かる。
 夜明け前の薄闇の中に洋装の姿がくっきりと浮かび上がり、その人が立っただけで場の温度が一段下がったように感じられた。
 その影に気づくなり、市村がすぐに背筋を伸ばす。

「……何でもありません」

 整いすぎた声音だった。ほんの少し前まで確かにあった揺らぎは綺麗に消える。
 それが返って雪の胸をざらつかせた。
 土方の視線が雪と市村を順に射抜いていく。

「時間だ。行くぞ」

 それだけで、全てが決まった。
 市村は一度だけ雪を見る。何かを言いかけるように唇が僅かに動いた。
 それでも、結局は何も言わないまま、静かに踵を返す。
 黒と浅葱の背が並び、岸を離れていく。

「……待って」

 気づけば足が前に出ていた。引き止めたい気持ちが、身体だけを先に動かしてしまう。

「雪」

 低く鋭い声が落ち、足が縫い止められたように止まった。

「お前の役割はここだ。五稜郭を守れ」

 振り返らないまま告げられたその言葉は、命令であり、同時に揺るがない現実だった。
 喉がひりつく。名前を呼べばいい、今ならまだ間に合うかもしれない―――そう思うのに、どうしても声が出ない。
 浅葱色の羽織が遠ざかっていく。黒い背中の隣で迷いなく歩いていく姿が、少しずつ小さくなっていく。
 手を伸ばしても、もう届かない距離だった。
 胸の奥で、何かが軋む音がする。