初めてだった。
市村に対してこんなにも神経を削り、ひとつひとつ刃物のように言葉を選ばなければならないのは。
喉の奥に溜まった音が、少しでも形を違えれば、二人の間に決定的な亀裂を落とす気がした。
「副長から正式に前線に立つよう命じられたんです」
淡々とした報告だった。抑揚もなく、誇りも怯えも混ざらない声音。
まるで今日の空模様を告げるかのように、静かに落ちる。
「……いつ?」
問いは短い。けれど、息を整えるまでにわずかな時間を要した。
「昨晩です。正確には、認められただけですが」
雪の指が、無意識のうちに袖口を強く握り締める。血が引き、白くなる指先。
自分だけが知らなかった。その事実が、胸の奥に小さく、しかし確実に刺さる。
「僕が無理を言って、前線に立ちたいと土方さんに直接話したんです。そうしたら、実際に手合わせをしまして。ほら、この通り。傷だらけで、今も筋肉痛が抜けません」
市村は両手を広げてみせる。袖口から覗く包帯。乾ききらない赤茶の滲み。
無理に浮かべた笑いは、乾いた風のように軽く何処か空虚だった。
「やっと、認めてもらえたんです。だから、僕は戦うために宮古湾へ向かいます」
その瞬間、空気が止まったように感じた。帆柱の軋む音も、足元を掠める潮の匂いも全てが遠のく。
ただ一つ、言葉だけが重く沈んでいった。
遠くで波が砕ける。白い飛沫が上がり、すぐに闇へ溶けた。
雪は市村を見上げる。
浅葱色の羽織は、まだ新しい。布地は硬く、折り目も残っている。その色だけが、夜明け前の暗さの中で、やけに鮮やかだった。
「戻りますよ」
また、その言葉が彼の口から零れ落ちた。
迷いなく、繰り返される約束は今も二人を縛っている。
「壊れない約束にしますから」
強く光らせた目を向けて、堂々と言い放った。前を見据え、揺らがぬ意志を宿した目だ。
けれど、雪には、その瞳がひどく遠くに見えた。
手を伸ばしても届かない場所へ、もう半歩踏み出しているように。
「……信じてないわけじゃないよ」
やっと出た声は、思ったよりも震えていなかった。
胸の内側では波が荒れているのに、音だけが静かに整っている。
「でも、怖いの」
零れ落ちた言葉は、市村の目を揺らした。
ほんの僅かだが、今まで決して崩れなかった硬い関係にひびが入ったようだ。
「誰かがいなくなるのが」
京という町で何度も目を逸らしたくなるほど見た。
朝になっても戻らない影。名を呼んでも返らない声。目の前で、もしくは目の届かない所で散っていった命。
「鉄君まで、いなくなるのが怖い」
言葉が落ちた瞬間、風が止んだ。
帆布の鳴る音も、波の音も、全てが遠くなる。沈黙だけが、二人の間に横たわっていた。
市村は何か言おうと口を開きかける。
だが、その形になりかけた言葉は、喉の奥で消えた。
市村に対してこんなにも神経を削り、ひとつひとつ刃物のように言葉を選ばなければならないのは。
喉の奥に溜まった音が、少しでも形を違えれば、二人の間に決定的な亀裂を落とす気がした。
「副長から正式に前線に立つよう命じられたんです」
淡々とした報告だった。抑揚もなく、誇りも怯えも混ざらない声音。
まるで今日の空模様を告げるかのように、静かに落ちる。
「……いつ?」
問いは短い。けれど、息を整えるまでにわずかな時間を要した。
「昨晩です。正確には、認められただけですが」
雪の指が、無意識のうちに袖口を強く握り締める。血が引き、白くなる指先。
自分だけが知らなかった。その事実が、胸の奥に小さく、しかし確実に刺さる。
「僕が無理を言って、前線に立ちたいと土方さんに直接話したんです。そうしたら、実際に手合わせをしまして。ほら、この通り。傷だらけで、今も筋肉痛が抜けません」
市村は両手を広げてみせる。袖口から覗く包帯。乾ききらない赤茶の滲み。
無理に浮かべた笑いは、乾いた風のように軽く何処か空虚だった。
「やっと、認めてもらえたんです。だから、僕は戦うために宮古湾へ向かいます」
その瞬間、空気が止まったように感じた。帆柱の軋む音も、足元を掠める潮の匂いも全てが遠のく。
ただ一つ、言葉だけが重く沈んでいった。
遠くで波が砕ける。白い飛沫が上がり、すぐに闇へ溶けた。
雪は市村を見上げる。
浅葱色の羽織は、まだ新しい。布地は硬く、折り目も残っている。その色だけが、夜明け前の暗さの中で、やけに鮮やかだった。
「戻りますよ」
また、その言葉が彼の口から零れ落ちた。
迷いなく、繰り返される約束は今も二人を縛っている。
「壊れない約束にしますから」
強く光らせた目を向けて、堂々と言い放った。前を見据え、揺らがぬ意志を宿した目だ。
けれど、雪には、その瞳がひどく遠くに見えた。
手を伸ばしても届かない場所へ、もう半歩踏み出しているように。
「……信じてないわけじゃないよ」
やっと出た声は、思ったよりも震えていなかった。
胸の内側では波が荒れているのに、音だけが静かに整っている。
「でも、怖いの」
零れ落ちた言葉は、市村の目を揺らした。
ほんの僅かだが、今まで決して崩れなかった硬い関係にひびが入ったようだ。
「誰かがいなくなるのが」
京という町で何度も目を逸らしたくなるほど見た。
朝になっても戻らない影。名を呼んでも返らない声。目の前で、もしくは目の届かない所で散っていった命。
「鉄君まで、いなくなるのが怖い」
言葉が落ちた瞬間、風が止んだ。
帆布の鳴る音も、波の音も、全てが遠くなる。沈黙だけが、二人の間に横たわっていた。
市村は何か言おうと口を開きかける。
だが、その形になりかけた言葉は、喉の奥で消えた。



