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軍議が解かれ、人の気配が遠のいた廊下。板張りに残る足音が、ゆっくりと消えていく。
夜気が凍る。吐く息が白く解け、すぐに闇へ溶けた。
「……土方さんよぉ」
不意に、低い声が背後から投げかけられた。
反射的に立ち止まり振り返ると、先程軍議を行っていた談話室から出てきた伊庭八郎が立っている。
かつて、江戸で名を馳せた剣客。戊辰の戦で左腕を失いながらも、なお右手で刀を握る男。
片袖が、夜風に僅かに揺れている。
その立ち姿には、欠けたものを感じさせぬ均衡があった。
「さっきは、ちぃと騒がしくしちまったぜ」
「構わねぇ。静かな戦なんざ、負け戦だ」
大して詫びれる様子のない言葉に、土方は即答した。
迷いのない声音に、伊庭の口元が微かに上がる。
「あんたらしいぜ」
「何がだ」
「新選組鬼の副長、土方歳三らしいってことだぜ」
その呼び名に、土方の目が僅かに細まる。
懐かしむわけでも、否定するわけでもない。ただ一瞬、遠い景色を見る目になっts。
「……まだそんな噂が残ってるのか」
「ああ」
伊庭は真っ直ぐに土方の目を見て言う。
「壬生の狼。規律を破れば即刻斬る。味方からも恐れられた、ってな」
夜風が廊下を抜ける。
灯火が揺れ、二人の影が壁に長く伸びた。
「だが同時に、誰よりも隊を守ったとも聞くぜ」
伊庭の視線は逸れない。
試すでも、持ち上げるでもなく、ただ事実を告げるように淡々と言う。
「俺は剣客だ。噂は武勇として伝わる。……あんたの名も、そうだったぜ」
土方はその話に鼻で笑った。
今更何を言うのだと、可笑しく思えたのだ。自分の知らない所でいいように噂されているのだから。
「今はただの負け残りだ」
自嘲にも似た声音だ。だが、そこに卑屈さはない。
現実を数えた上での言葉だった。
「いいや―――勝つために残っている、だろ?」
長い長い沈黙が落ちた。
廊下の奥で、何処かの戸が鳴る。
遠く、波の音が微かに届く。
伊庭は一歩だけ土方に近づいた。足音は小さい。だが、思い決意を感じられる。
「俺は、あんたのやり方が好きだぜ」
「好かれる覚えはねぇ」
「情じゃなくて算で動く。だが、切るべき時は躊躇わないってところがな」
伊庭の瞳が鋭く光った。
片腕であることなど、その言葉には微塵も感じさせない。
「俺は斬るぜ。あんたは、生かしてくれ」
言葉は短いが、役割は明確だった。斬る者と、全体を生かす者という役割。
土方は懐から懐中時計を取り出した。
蓋を開くと、かちり、と小さな金属音が鳴る。
規則正しく刻を刻む針。誰の覚悟にも、誰の恐れにも左右されない。
「丑三つ前に出る。遅れるな」
「分かってるぜ」
伊庭は深く頷いて、迷いの無い目を向けた。やがてくるりと背を向けて歩き出す。
だが、去り際に足を止めた。
「……一つだけ」
振り返らずに、少し視線を落として言う。
「あんたはまだ、“鬼”なのか?」
静かな問いだった。挑発でも、恐れでもない。確かめるための声。
土方は時計を閉じる。かちり、と音が夜に溶ける。
その音を合図に、土方は抑揚のない静かな声で答えた。
「必要ならな」
それだけで言葉は短い。だがそこには、迷いも躊躇もなかった。
伊庭は小さく笑い、再び前を向く。心做しか、背筋が伸びていた。
「なら安心だぜ」
ゆらりと揺れる羽織の片袖が闇に消えていく。
足音が遠ざかり、再び廊下は静まった。
土方は独り、夜気の中に立つ。
「鬼だろうが人間だろうが、勝ちゃいい」
低い呟きは、自らに向けたものだった。
遠くで波が打ち、風が城郭を撫でていた。



