想いと共に花と散る

 静かな提案だった。
 その名は、灯火の揺らぎの中に落ちた小石のように、波紋だけを広げる。

「新選組の……か」

 榎本が目を細め、土方に視線を向ける。値踏みするようでもあり、興味を覚えたようでもあった。海軍の男にとって、陸の隊士は未知の存在である。
 土方は動かなかった。だが、視線が僅かに変わる。
 その名が、かつての隊の日々を一瞬だけ呼び起こした。壬生の屯所、油の匂い、夜回りの足音。散っていった背中が、脳裏を掠める。

「胆力はある。白兵戦にも慣れているから統率も取れるだろう」

 淡々とした声で言う。
 情を挟めば鈍る。今ここで必要なのは、過去ではなく算段だ。
 言葉にはせずとも考えていることがありありと溢れ、それに気付いた榎本が興味深そうに笑う。

「土方君の隊士か」
「……ああ」

 短い返答だけを口にし、それ以上は語らない。
 語れば、守れなかった名まで連なりそうだった。
 伊庭がゆっくりと頷く。

「ならば、甲板は任せられるぜ」

 片袖を揺らし、得意げに伊庭は笑った。
 敵陣に斬り込む者と、それを束ねる者。役割が、静かに噛み合う音がした。
 大鳥は一度だけ目を閉じ、それからすぐに開いた。
 海戦は陸戦とは違う。それでも、この布陣ならば賭ける価値はあると判断した顔だった。
 土方は最後に海図を見下ろした。細い線で描かれた航路。宮古湾の入り口。そこへ至るまでの潮と風向き。全てが頭の中で組み上がる。

「決まりだ」

 その一言で全てが定まる。誰もすぐには動かなかった。
 灯火の芯が、ぱちりと小さく爆ぜる。
 決断とは、こうも静かに下されるものか。それぞれが胸の奥で、その重みを受け止めている。

「奪取は一瞬。帰還までが戦。誰一人、無駄死にするな」

 低い声は命令というより、釘だった。打ち込まれた言葉は、抜けない。
 伊庭の瞳が燃える。その炎は、己の命を燃料にしても揺らがない類のものだ。
 榎本は僅かに微笑み、勝負師の顔になる。
 大鳥は静かに息を吐き、計算を組み直す。
 土方だけが、揺れない。
 懐中時計の蓋が、かちりと開く。規則正しく刻む針。誰の感情にも左右されず、ただ進む。
 戦もまた、止まらない。

「出航時刻は丑三つ前。遅れは許さねぇ」

 視線を上げる。それは問いではなく、確認でもない。従う覚悟があるかどうかを、黙って測る目だった。誰も逸らすことはしない。
 懐中時計の蓋が閉じる音が軍議の終わりを告げた。
 椅子が引かれる音。足袋が板を踏む音。だが誰も、軽くは動かない。
 奇策は定まり、命の行き先も決まった。
 海を欺き、敵を欺き、運をも掴み取る。だがそれは、生還を約束するものではない。
 勝ち筋はある。だが確実ではない。それでも進むと、全員が選んだ。
 土方は海図を畳む。その仕草に迷いはない。もう後戻りはないと、自らに言い聞かせるようでもあった。
 戸が開き、冷たい夜気が流れ込む。
 遠くで、波が低く打つ音がする。宮古湾はまだ静かだ。だが、その静けさは、嵐の前のものだと誰もが知っている。
 誰が生きて戻るかは、まだ誰にも分からない。
 名を挙げられた者も、名を挙げなかった者も。
 海は等しく呑み込む。海だけが、闇の向こうで低く息づいていた。