恋も料理もじっくり弱火で

 その皿を差し出している男子生徒へと視線を移した瞬間、柚葉は「……あ」と声を漏らしたまま、ぽかんと固まる。
 無地の紺色のエプロン、少しだけ茶色がかった髪。穏やかな目元には、何処か人懐っこい笑みが浮かんでいる。少女漫画から飛び出してきたような端正な顔立ちの先輩は、固まる柚葉を見てくすりと笑った。

「そんなにびっくりした?」
「あ、いえ……!  すみません!」

 慌てて首を振る柚葉の前へ、先輩は優しく皿を押し出す。

「これ、新作の試作品なんだ。もしお腹に余裕があるなら、食べてみてくれない?」
「いいんですか!?」

 さっきまでフリーズしていたのが嘘みたいに、柚葉の表情がぱあっと明るくなった。

「もちろん。どうぞ」
「いただきます!」

 迷いなくスプーンを手に取り、黄金色の山にそっと刃を入れる。
 肉汁……いや、オムレツの中に仕込まれていた特製のミートソースがじゅわっと溢れ出し、濃厚なバターのコクと合わさって口いっぱいに広がった。あまりの美味しさに、柚葉はカッと目を見開く。

「……美味しいっ!  卵がふわっふわで、お肉がすっごく柔らかい!」
「よかった。下味と火の入れ方を少し工夫してるんだ」

 夢中で咀嚼する柚葉を見て、先輩は満足そうに微笑むと、空いている椅子を引いて向かい合わせに腰を下ろした。

「一年生?」
「はいっ、緒方柚葉です!」
「へぇ、柚葉ちゃん」

 先輩は顎に手を当て、にこりと笑う。

「ちなみに、なんで調理部を見学しに来たの?」
「美味しいものが食べたくてです!」

 一ミリの躊躇もない即答だった。
 目を丸くした先輩は、次の瞬間、堪えきれないといった風に声を上げて笑い出した。

「あははっ!  ……ふう、ごめん。そんな理由で体験に来た子、初めて見たよ」
「えっ、変でしたか?」
「いや、最高だと思う」

 笑いながら首を横に振る先輩に、柚葉は真剣な顔で頷いた。

「美味しいものって人を幸せにするじゃないですか。だから……いつか自分でも、こういう最高のごちそうを作れるようになりたいなって」

 柚葉の本音がぽろりと溢れる。先輩は一瞬驚いたように、けれど何処か嬉しそうに目を細めた。

「……そっか。ねえ、柚葉ちゃん」
「はい?」
「そのオムレツ、全部食べられそう?」
「もちろんです!  別腹ですから!」

 元気よく答える柚葉に、先輩は「やっぱりね」とまた声を弾ませて笑う。その笑顔は何処か楽しそうで、まるで珍しい宝物を見つけた子どものようだった。
 しかし、今の柚葉はそんな視線には微塵も気づかない。

(美味しい……本当に、生きててよかった……!)

 ただ美味しいものが食べられる。この場所にあるのは、それだけではないらしい。