恋も料理もじっくり弱火で




 終業のチャイムが鳴り響いた瞬間、柚葉は弾かれたように席を立った。

「よーし、勝負の時間は今!」
「ちょっと柚葉、そんなに血相を変えて何処に行くの?」

 自分の席でノートを閉じていた結菜が目を丸くする。柚葉は拳をきゅっと握り、満面の笑みを浮かべた。

「決まってるじゃん、調理部の体験入部!」
「あはは、朝からずっとそればっかり考えてたもんね」
「だって、放課後においしいご飯が食べられるんだよ?  そんなの、実質ご褒美じゃん!」
「……動機がやっぱり不純なんだよねぇ」

 結菜が苦笑し、真帆も呆れたように肩を揺らす。「美味しい感想、期待してるからね!」という二人の声に見送られ、柚葉は教室を飛び出した。


 廊下を歩くだけで、胸の鼓動がトツトツと速くなる。

(どんな料理を作るんだろう。お菓子かな?  それとも、がっつりご飯系?)

 頭の中はすでに、まだ見ぬごちそうへの期待で満杯だった。
 目的地の家庭科室の扉には、『調理部 体験入部歓迎!』と書かれた色鮮やかな紙が貼られている。柚葉は一度だけ深呼吸をしてから、勢いよく扉を開け放った。

「し、失礼します!」

 部屋の中には、エプロン姿の部員達が何人も集まっていた。香ばしいお出汁と、微かなバターの匂いが鼻腔を擽る。

「あら、体験入部の子?  いらっしゃい」

 一番に話し掛けてきたのは、穏やかな微笑みを浮かべた女子生徒だ。

「今日は新入生のみんなと一緒に、ハンバーグ定食を作るよ」
「ハンバーグ……!」

 その響きだけで、柚葉の目がきらきらと輝き出す。
 ふっくらと膨らんだ肉厚のハンバーグ、つやつやに輝く白ご飯、野菜の甘みが溶け込んだコンソメスープに、彩り鮮やかなポテトサラダ。まだエプロンすら着けていないのに、柚葉の脳内には完璧なディナーセットが完成していた。


 調理が始まれば、まさに戦場だった。慣れない手つきで玉ねぎをみじん切りにし、涙目になりながらもひたすら手を動かす。周りの一年生と「目が痛いね」と笑い合ったり、先輩に火加減を教えてもらったり。美味しいもののためなら、どんな苦労も苦にならない。
 あっという間に時間は過ぎ、ついに至福の瞬間が訪れた。

「いただきます!」

 目の前のハンバーグにナイフを入れる。その瞬間、繊細な肉の壁を破って、じゅわっと透明な肉汁が溢れ出した。
 たまらず一口、口に運ぶ。

「美味しい……っ!」
 
 噛み締めた瞬間、肉の旨味と玉ねぎの甘みが口いっぱいに広がり、柚葉の頬はとろけそうに緩んだ。

「わあ、あの子、本当に幸せそうに食べるね」
「見てるこっちまでお腹が空いてきちゃう」

 周りの部員たちがクスリと笑う。中には「よく食べる、ちょっと変わった子だな」なんてヒソヒソ声もあったけれど、今の柚葉の耳には届かない。最後の一口を愛おしそうに頬張り、目を閉じて余韻に浸る。

「はぁ、幸せぇ……」

 ――その時だった。

「そんな美味しそうに食べてくれると、作りがいがあるよ」

 低く落ち着いた声と共に、不意に目の前へ一皿の料理が差し出された。
 繊細な湯気を立てる、息をのむほど綺麗な黄金色のオムレツ。とろりと艶めく自家製らしきデミグラスソースがかかり、ふわりと上質なバターの香りが鼻を擽る。

「……え?」

 驚いて顔を上げると、そこには紺色のエプロンを身に着けた、一人の男子生徒が真っ直ぐ見下ろして立っていた。