あれから、いくつかの季節が巡った。
しんと静まり返った放課後の調理室。
傾きかけた冬の柔らかな光が差し込む調理台で、柚葉は一人、真剣な表情で包丁を握っていた。
かつてのように危なっかしくよそ見をすることもない。その傍らには、何冊目かになった『おいしかったものノート』が広げられ、そこには付箋や細かいメモがびっしりと書き込まれていた。
トントン、トントン、と小気味よい音が室内に響く。
月日は流れ、季節は巡り――今は二月。
秋月の卒業が、すぐ目の前まで迫っていた。
いつもなら料理の試作に励む時間だが、この日、柚葉の手元にあるのは肉でも魚でもない。甘い香りを放つチョコレートと、丁寧に湯煎された生クリーム。
大好きな人の旅立ちを前に、柚葉は特別なスイーツを作っていた。
全神経を手元に集中させ、チョコレートを滑らかに練り上げていく。その時、ガラガラと静かに調理室の引き戸が開く音がした。
スリッパの足音がゆっくりと近づいてくる。柚葉が振り返るよりも早く、背後から温かい体温が近づき、大きな腕がふわりと柚葉の体を包み込んだ。
懐かしい、大好きな特等席。
秋月は柚葉の肩にそっと顎を乗せ、手元を覗き込むようにして囁いた。
「何作ってるん?」
低く耳元で響いた声は、学校用の標準語ではなく、二人きりの時だけ許されたあの甘い博多弁のイントネーションを帯びている。
「あ、来るの早いですよ先輩。サプライズにしようと思ってたのに」
柚葉は口を尖らせながらも、背中に伝わる秋月の心音があまりにも心地良くて、自然と頬を緩ませた。
「我慢できんで早く来ちゃった。……これ、もしかしてバレンタインの試作?」
「試作じゃないです、本番です! 先輩に一番に食べてほしくて」
柚葉は手を止め、スプーンで掬ったツヤツヤのチョコレートの泡を、くるりと振り返って秋月の口元へ差し出した。
「はい、味見係さん。あーん、してください」
「立場が逆やろ」
秋月は呆れたようにくすりと笑いながらも、素直に口を開いてぱくりと受け止めた。
口の中でゆっくりと溶けていく、濃厚で、けれど驚くほど優しくて上品な甘さ。
「……美味い。びっくりした。柚葉、いつの間にこんなに腕上げたと?」
「ふふん、毎日世界一の料理人の助手をしてましたからね! 先輩の厳しい『なーーんばしよっとね!』のおかげです」
冗談めかして胸を張る柚葉を見つめ、秋月は愛おしさが抑えきれないというように、抱き締める腕にぎゅっと力を込めた。
生きるために無理をして食べていた少女と、生きるために必死に作り続けていた少年。
あの日、誰もいない公園で重ね合わせた二人の傷跡は、今ではもう、互いを温め合うためのかけがえのない絆へと変わっていた。
「……幸せや」
「えへへ、改まってなんですかー?」
「んー? 柚葉がこの学校に入学してきて、調理部に入ってきてくれて良かったなぁって。つーか、もう生まれてきてくれて、食べることが好きでいてくれて良かった」
「……私だって、秋月が料理好きで、優しくて、私にオムレツを作って持ってきてくれて良かったって思ってます」
半ば飛び込むようにして調理部にやってきた柚葉の前には、いつだって秋月がいた。
「卒業しても、毎日あんたのご飯は俺が作るけん。……だから、ずっと俺の隣でおいしそうに食べときね?」
「はい! もちろんそのつもりです。先輩の特別なお嫁さんになりますからね」
照れもせずに満面の笑みで即答する柚葉に、秋月は「やっぱり敵わんね」と降参するように笑い、その柔らかい唇に、チョコレートよりも甘いキスを静かに落とした。
窓の外には、まだ冷たい冬の風が吹いている。
けれど、二人の特等席である調理室には、これから始まる甘くて温かい未来の香りが、何処までも幸せそうに満ち溢れていた。



