恋も料理もじっくり弱火で


「……俺も、初めてだから」
「え?」
「いや、何でもない。……行こうか」

 照れ隠しのように歩き出す先輩の少し広い背中を追いかけて、柚葉は「はい!」と一歩後ろを歩き出した。
 二人が最初に向かったのは、駅前にある老舗の洋食屋だった。
 開店と同時に入店すると、店内にはバターとデミグラスソースの香ばしく甘い香りが優しく漂っている。

「んんー、いい匂い……!」

 柚葉は一瞬で緊張を忘れ、幸せそうに目を細めた。

「秋月先輩、私、この匂いだけで白いご飯三杯は食べられそうです」
「それは流石に無理やろ」
「いけます!」

 食いしん坊の意地をかけた即答に、秋月は堪えきれずにクスクスと吹き出した。

「やっぱり柚葉ちゃんは裏切らんね」

 二人は窓際の落ち着いた席へ案内され、メニューを開いた。そこにはハンバーグやナポリタン、ビーフシチューなど、昔ながらの洋食がずらりと並んでいた。
 そして、一番上には「店自慢」と書かれた文字。

 ――特製ふわとろオムライス。

「これだね」

 秋月が迷いなく指差す。その指先を見つめながら、柚葉の胸の奥にあの放課後の甘い記憶が蘇る。

「今日はこれを食べて勉強したかったんだ。ここのデミグラス、評判がすごく良くてさ」
「オムライス!  私もそれにします!  先輩のオムライスとどっちが美味しいか、しっかり確かめなきゃです!」

 注文を済ませると、料理が運ばれてくるまで二人は店内を眺めていた。
 壁には何十年も前のセピア色の写真、使い込まれて深い味の出た木のテーブル。
 年季の入った厨房からは、フライパンを軽快に振るう心地良い音が聞こえてくる。

「こういうレトロなお店、好きなんですか?」
「うん。流行りの綺麗なお店もトレンドの勉強にはなるけどね。でも、こうやって何十年も長く愛されてる店には、絶対に理由があるから」
「理由、ですか?」
「味だけじゃない。お店の雰囲気とか、おばちゃんの接客とか、厨房から聞こえる音とか。そういう空間の全部が、料理をさらに美味しくする隠し味になっとるお店。……俺もいつか、そういう場所を作れたらなって思う」

 柚葉は「なるほど……」と小さく頷き、真剣な横顔で見つめ返した。