窓を開けると、林の匂いが流れ込んでくる。
この場所に来て、二週間ほどが過ぎていた。
鏡台の前に座り、鏡の中の自分を見る。
黒髪に、黒い瞳。
この世界では、黒い瞳の人間は生まれない。
黒髪も珍しいが、それだけならまだいる。
けれど、黒髪と黒い瞳、その両方を持つ人間は存在しないとされている。
だから私は、昔から不吉を呼ぶ姫と呼ばれてきた。
――理由は、いくつかある。
私を生むと同時に母は亡くなり、その年、父も流行り病で床に臥せった。
その出来事が、人々の噂をさらに強めた。
生まれたばかりの王女が、不吉を呼んだのだと。
成長するにつれて、もう一つ理由が増えた。
私は家族の誰にも似ていなかった。
父も兄も姉も、皆彫りの深い整った顔立ちをしている。
王族らしい華やかな容姿だ。
それに比べて私は、黒髪と黒い瞳に彫りの浅い地味な顔。
それが、周りには余計異様に見えたのだと思う。
――だから私は、六歳の頃からミルバーグ城の塔で育った。
二十七歳になった今も、暮らしは何も変わらない。
気づけば、塔の外で過ごした時間の方がずっと少ない。
ただ、完全な幽閉というわけではない。
塔の中では自由で、物心がつくまでは自分の立場もよく分かっていなかった。
けれど、自分の置かれている状況を理解したときは、さすがに衝撃だった。
初めて公の場に出た夜、本気で消えてしまいたいと思ったこともある。
奇異、畏怖、嫌悪の視線を、まともに見返すこともできなかった。
中には、黒い瞳を恐れるように目を合わせようとしない人もいた。
それでも、私は生きている。
お父様の言葉があったからだ。
――お前の母は命を引き換えにお前を生んだ。
――だから、お前は生きなければならない。
そして父は最後に、「すまない」と言った。
国民が王族に不安を抱けば、国が不安定になる。
だからこんな措置しか取れなかった、と。
その言葉を、今でも覚えている。
そんな私が、今こうしてトルシアにいる理由はひとつだ。
ふと、レオンハルト兄様との会話を思い出す。
―――――――――――
「トルシア国王の弟であるウィル・トルシア殿との婚約が決まった」
塔を訪ねてきた兄は、そう告げた。
「えっと、あの、お兄様。それは、どういう……」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
そもそも、誰かと結婚するなどあり得ない立場だったから。
「今から話す」
落ち着いた声で、兄は語りかける。
「ゼリアがミルバーグへ侵略行為を繰り返しているのは知っているな」
淡々とした口調のまま、言葉が続く。
「ただ、どれも途中で崩れている」
「軍の問題だったり、流行り病だったり……理由は様々だが」
そこまで聞いて、自然とあの噂が頭に浮かんだ。
――不吉を呼ぶ姫がいる国を攻めると、不幸が起きる。
兄も同じことを考えているのだろう。
「……馬鹿げた噂だが、確実に広がっている」
兄は息をついた。
「そのせいか、最近はミルバーグよりトルシアへ矛先が向いている」
「トルシア国王から打診があったんだ。アリスをウィル殿の婚約者として迎え入れたいと」
「心配しなくていい、仮の婚約だ」
仮という言葉に、胸をなで下ろす。
「馬鹿げた噂だが、ゼリアへの抑止力になればと」
そこで、ようやく状況が見えてきた気がした。
「つまり、私の縁をトルシア国へと広げるために……。効果はあるんでしょうか」
思わず口にすると、兄はわずかに視線を落とす。
「……分からない」
はっきりとした否定でも肯定でもない。
「だが、トルシアは同盟国だ。もし、あちらに何かあれば、いずれまた我が国に矛先は向くだろう」
そして、私を申し訳なさそうに見て続ける。
「これは国としての決定事項だ。アリス」
「わかりました」
そう答えて、静かに頷いた。
兄はその様子を見て言葉を足す。
「それに、ウィル殿は何度か会っているが、誠実で実直な男だと感じた」
「その上、騎士団長としての才もある。ウィル殿が騎士団を率いるようになってから、トルシア軍の練度は目に見えて上がった。指揮官としても優秀で、剣の腕も国随一だ」
「……私も父上も、お前を任せられると判断した」
少しだけ言い方が柔らぐ。
私のことを思っていることだけは伝わった。
それから、兄がふと思い出したように続ける。
「それに、ウィル殿は驚くほど容姿端麗だ。お前も会えば驚くと思う」
アリスは思わず目を瞬いた。
「お兄様……」
「事実だよ」
兄が笑った。
仮とはいえ、そんなすごい方の婚約者として私が呼ばれるなんて。
正直、少し不思議な気持ちがした。
彼に不吉を呼ぶなどとは、考えなかったのだろうか。
―――――――――――
ふっと息を吐いて、意識を現実へ戻す。
ミルバーグにいた頃と、あまり変わらない生活だ。
塔に住み、朝昼はリリスと共に食事を作り、手が空くと手芸をする。
違うのは、家族がいないことくらいだ。
少しだけ心細い。
でも、リリスがいるから寂しくはない。
塔のそばには用意された小さな畑もあり、野菜の種はすでに蒔かれていた。
トルシアの人たちが、私が来る前に準備してくれていたらしい。
芽はもう出ていて、少しずつ育っている。
花壇には色とりどりの花が植えられていた。
こちらはすでに咲き始めていて、塔のまわりを明るくしている。
水をやったり、土を触ったりする時間も好きだった。
そして、林での散歩。
林の奥には、あのベンチがある。
ミルバーグにはない場所だ。
いつの間にか、私のお気に入りになっていた。
なぜかは分からないけれど、あそこに座っていると少しだけ気持ちが落ち着く。
つい足が向いてしまう。



