箱入り娘は無感情ボディーガードに護られたい

 そして、母は夫を見据えたまま、振り返ることなく、けれどはっきりと通る小さな声で言った。

「新那」
「……っ!」
「今よ」

 新那は大きく目を見開く。

「零の手を、絶対に離しちゃ駄目」

 母は振り返り、新那に向かっていつものように穏やかに優しく微笑んだ。

「その子を連れて、行きなさい」
「ママ……?  でも、二人は……」
「早く」

 今度は、母親としての少しだけ強い、有無を言わせない口調。

「文化祭があるんでしょう?」

 新那の瞳から、堪えきれなくなった涙がポロポロと床へ零れ落ちる。

「……うんっ!」
「だったら」

 母は満足そうに、いつもの優しい笑顔で深く頷いた。

「行ってらっしゃい。あなたの王子様を、ちゃんと舞台へ立たせてあげなさい」

 零は、最後にじっと孝允の目を見つめた。
 その真っ直ぐな視線に気付いた孝允は、苦々しそうに、けれど全てを諦めたように静かに目を閉じる。
 追手の警備員を動かすこともしなければ、脳内通信での停止命令(シャットダウン)を下すこともしなかった。
 創造主としてのその無言の容認だけで、今の二人には十分すぎるほどだった。
 零は、手首の鎖をジャラリと鳴らし、孝允と母に向かって深く、深く頭を下げた。

「……ありがとうございます」

 その言葉が、自分を庇ってくれた母へ向けたものだったのか、それとも自分に心を学ぶ機会を与えてくれた父へ向けたものだったのか。あるいは、その二人に向けてのものだったのか。それは誰にも分からなかった。

「零!」

 新那がその手を強く引っ張る。

「――はい、お嬢」

 今度は、一ミリの迷いもなかった。
 二人は同時に地を蹴り、全力で駆け出した。
 白い無機質な研究室を飛び出し、何処までも続く長い廊下をすり抜け、赤く激しく点滅する警報灯の下を、風を切って全力で駆ける。
 ガラス越しに多くの研究員達が驚愕の表情で二人を見送ったが、彼らを追いかけてくる足音は何処からも聞こえなかった。地下施設の防犯用自動扉が、二人の接近を歓迎するように次々と左右へ開いていく。
 やがて、地上へと続く最後の分厚い扉が、勢いよく開いた瞬間――。
 視界を真っ白に染めるほどの、眩しい夕陽の光が二人を優しく包み込んだ。
 地下の冷たく湿った機械の空気とは違う、夏の終わりの、少しだけ汗ばむような温かな風が二人の頬を柔らかく撫でる。
 新那は光の中で立ち止まり、肺がいっぱいになるほど大きく息を吸い込んだ。

「……外だ。外に出られたよ、零!」

 その何気ない、けれど自由の響きが乗った一言に、零もゆっくりと眩しそうに空を見上げた。
 燃えるような茜色に染まる鰯雲。遠くの校舎の窓から微かに響いてくる、吹奏楽部の楽しげな演奏の音。ひぐらしの切ない鳴き声。
 どれも、あの暗い研究所の底には存在しなかった、世界が生きている音だった。
 新那はそっと、繋いだままの零の手をもう一度強く握り直す。
 零もまた、その愛おしい手のひらの温もりを感じながら、同じ強さでぎゅっと握り返した。
 以前なら、「護衛対象との接触命令」というプログラムに従ってただ繋いでいた機械の手。
 けれど、今は違う。
 自分の意思で、この手を二度と離したくないから、心から繋いでいる。
 二人は差し込む夕陽の光の中、互いの顔を見合わせ、言葉にならない喜びと共に、小さく、けれど幸せそうに笑い合った。