「……なん、で」
震える声でその名前を呼んだ次の瞬間には、新那の身体は弾かれたように駆け出していた。
薄暗い廊下をがむしゃらに走り抜け、そのまま玄関の光の中へ飛び込む。
「ママ……っ!」
「ふふっ」
女性は優しく笑うと、旅行鞄から手を離し、飛び込んできた愛おしい娘を両腕でしっかりと受け止めた。ぎゅっと抱き締められる、本物の人間の体温。
「大きくなったね、新那」
耳元でその声を聞いた瞬間、何年も胸の奥の一番深いところに押し込めていた寂しさが、一気に涙となって溢れ出しそうになる。
「ほんとに……本物のママなんだよね?」
「うん。本物だよ」
柔らかな掌が、新那の黒髪をゆっくりと愛おしそうに撫でる。幼い頃、熱を出した時や泣いた時にいつもこうしてくれた、記憶通りの優しい手つき。ふわりと鼻腔を擽る、少しだけ甘い懐かしい香水の香り。
「急に帰ってくるなんて、何も聞いてないよ……連絡くらいしてくれたらよかったのに」
「だって、新那を驚かせようと思って秘密にしてたんだもの」
悪戯っぽく茶目っ気たっぷりに笑う母の顔を見て、新那も思わず涙を引っ込めて笑ってしまう。
「もう……心臓が止まるかと思った。びっくりしたぁ……」
「ふふ、じゃあサプライズは大成功かな?」
「大成功どころじゃないよ」
二人は顔を見合わせ、小さく笑い合った。数年ぶりに神条家に流れる、母と娘だけの穏やかで温かい時間。まるで空白だった長い年月を一瞬で埋めるような、絵に描いたように幸せな朝の光景。
けれど、新那の胸の奥には、どうしても消えない冷たい引っ掛かりが残ったままだった。
「あれ? ……そういえば」
「どうしたの?」
「……零がいないの。朝からずっと探してるんだけど」
その名前を口にした瞬間、母は少しだけきょとんとした顔をして首を傾げた。
「レイ? ……どなたかしら」
「あっ……」
新那はハッと息を呑み、しまったと心の中で呟いた。そうだ、母親はまだ何も知らないのだ。自分が家を出ていた間に、父親が護衛として謎の少年――アンドロイドをこの家に迎え入れたことも、その彼が今では新那と同じ高校に通って隣の席に座っていることも。
「ええとね、その零っていうのは――」
慌てて説明を取り繕おうとした、その時だった。
「おはよう」
低く、一切の感情を排した落ち着いた声が廊下に響く。
二人が同時に振り返ると、仕立ての良い高級なスーツに身を包み、ネクタイの結び目を無機質に整えながら、孝允がリビングからゆっくりと姿を現した。
「あなた」
母は新那を抱きしめていた腕を緩め、夫に向かって穏やかに微笑みかけた。
「久しぶりね。ただいま」
「ああ。おかえり。元気そうで何よりだよ」
父親は短く淡々と答えた。それでも、その声のトーンには何処か、張り詰めていた糸が解けたような安堵の空気が微かに漂っていた。



