箱入り娘は無感情ボディーガードに護られたい

 零の表情が、一瞬にして完全に凍りつく。

『本日二十一時』
『いつもの部屋へ来るように』

 それだけの、極めて短い命令文。事務的で、無機質で、血の通っていないテキストデータ。
 だが、零には直感的に分かっていた。これが文化祭の他愛もない話ではないことも、新那の日常の護衛任務に関するフィードバックではないことも。もっと別の、冷徹で決定的な何かが動こうとしているのだと。
 胸の奥が、嫌な音を立ててざわつき始める。
 最近、彼のシステムの中に頻繁に発生する、ロジックでは処理しきれない未知のエラー。
 以前、新那の部屋で見つけて読んだ人間心理学の本には、この不快な胸の騒ぎのことが、こう記されていた。

――『不安』という名の感情である、と。

「……神条君?」

 不意に、莉子の怪訝そうな声が耳に届き、零はハッと我に返った。

「あ、いや……どうしたの?  急に黙り込んじゃって」
「なんでもない」

 零は小さく首を振り、いつものトーンを意識して言葉を返した。

「少し、自分に務まるのか不安になっただけだ」

 完璧な言い訳だった。誰の目から見ても、ただ出し物を心配する男子の姿にしか見えなかったはずだ。
 けれど、新那だけは、見逃さなかった。
 ほんの一瞬、零の瞳から一切の体温が消え失せ、あの日出会ったばかりの、冷たい機械のガラス玉に戻ってしまったことを。

「……そっか」

 それ意外何と言ったら良いのか分からず、新那は表情を曇らせて前を向いた。

「よし」

 担任が再び教卓をスパンと叩く。

「演目も演劇に決まったことだし、次は一番揉める配役決めな。サクッと決めるぞ」

 その言葉が終わるか終わらないかの内に、教室のボルテージはさらに跳ね上がった。

「うわ、そこが一番大事なやつ!」
「主役誰にする!?」
「こういうのは推薦制にしようぜ!」

 黒板には、さっき脚本担当に任命された生徒がチョークで大きくタイトルを書き記している。
 内容は王道のファンタジー。魔王に攫われた美しいお姫様を、勇敢な王子様が救い出すという物語だ。ひねりはないが、分かりやすいし文化祭の舞台にはこれ以上なく向いている。

「まず、一番重要な王子役!」

 誰かが勢いよく叫んだ。すると、

「そんなの神条だろ」
「あー、神条だな」
「ぶっちゃけ神条以外に候補いる?」
「いない。満場一致」

 それは驚くほどの即決だった。クラス中が「それな」とばかりに深く頷く。
 当の零だけが、腕を組んだまま全く状況を理解していない顔で眉を顰めていた。

「……何で俺なんだ。別に俺じゃなくてもいいだろ」
「何故じゃないんだよなぁ」

 隣の席の男子が呆れたように零の肩をポンと叩いた。

「いいから一回鏡見てこいって」
「意味が分からない。配役の選定基準に鏡の有無が関係あるのか?」
「あはは!  そこがまたマジで腹立つわ!」

 教室中がドッと大きな笑いに包まれる。
 いつの間にか。本当にいつの間にか、零はクラスという輪に深く馴染んでいた。
 一学期の初めは誰もが遠巻きに見ていた、冷徹で近寄りがたいほど端正な少年。それが今では、皆に弄られ、気軽に話し掛けられる存在になっている。
 その光景が、新那には堪らなく嬉しかった。胸の奥が、自分のことのように誇らしくて温かくなる。