箱入り娘は無感情ボディーガードに護られたい

 数日後。
 終業式を終え、本格的な夏休みに入った神条家の屋敷は、いつもよりずっと静かだった。
 学校という日常から切り離され、新那が部屋に籠もっているせいもあるのだろう。
 じりじりと照りつける太陽の熱気と、降るような蝉の鳴き声だけが、開け放たれた窓の外から鼓膜を支配するように響いている。
 遮光カーテンが半分引かれた薄暗いリビング。そのソファに腰掛けた零は、一冊の分厚いハードカバーを開いていた。

『人間心理学――行動と感情の相関関係』

 最近になって、彼がデータベースに頼るだけでなく、あえて物理書籍として捲る機会が増えたジャンルの一つだ。
 ページを捲る。視覚センサーが文字を追い、記録していく。
 けれど、その精緻な文字列は、不思議なほど彼のメインメモリに定着しなかった。
 ――数日前。あの冷徹な地下室で交わした、神条誠一郎との会話の音声ログが、バックグラウンドで何度も、何度も自動再生されていたからだ。

『君は護衛だ』
『それ以上のものではない』
『これ以上バグが任務に支障をきたすなら、君を解体する』

 消去コードを受け付けない、呪いのような命令。
 彼の高性能な演算装置は、すでに何千回もその対話を解析し、シミュレーションを繰り返していた。そして、弾き出される結論は、いつでも無機質に同じだった。

――神条孝允の判断は、百%合理的であり、正しい。

 無機質な盾であるはずの護衛が、対象へプログラム外の過度な執着を抱くことは、警護における最大の「リスク」だ。
 ノイズ混じりの感情は、一瞬の判断を鈍らせる。そして任務に致命的な支障をきたす可能性がある。
 だから、最適解は一つ。今すぐ新那との情緒的な接触を断ち、一定の物理的・精神的距離を維持すること。
 システムがそう冷徹に結論付けているはずなのに。

「……」

 零は、パタンと音を立てて本を閉じた。思考のループに、自らストップを×ように。
 その時だった。
 背後から、微かな足音が近づいてくるのを音響センサーが感知した。
 軽い、スリッパの擦れる音。聞き慣れた、世界に一つだけの波形。
 数歩進んではピタリと止まり、また数歩進んでは躊躇うように止まる。いつになくそわそわとした、落ち着きのない足取りだ。
 零はあえて振り返らない。それでも、それが誰なのかは完全に把握していた。

「どうした、お嬢」
「ひゃっ!」

 後ろから、飛び上がるような短い悲鳴が上がった。
 零がゆっくりとソファ越しに振り返ると、案の定、そこに新那が立っていた。何故か、後ろ手に何かを隠すような奇妙な姿勢のままで。

「な、なんで後ろ向いたまま分かるの?」
「足音の周波数だ」
「足音だけで!?」
「お嬢は歩行時、右足の接地時間が左足に比べて僅かに長い。歩幅のブレ、床への加重分布を照合すれば、視覚情報がなくても特定できる」
「……なんかちょっと、気持ち悪い!」
「ただの事実ベースの分析結果だ」

 新那は不満そうに、リスのように呆れた顔で頬を膨らませた。
 けれど、すぐにぷいと視線を斜め下に逸らしてしまう。その頬は、夏の暑さのせいだけではない、微かな赤みを帯びていた。