箱入り娘は無感情ボディーガードに護られたい

 ふわり、と窓から流れ込んだ初夏の風が、新那の柔らかな髪を優しく揺らした。
 数本の黒髪が彼女の白い頬へと滑り落ちる。西日に照らされたその一本一本が、まるで細い金糸のように繊細な光を放っていた。

「……」

 零は無意識の内に、その大きな手を伸ばしていた。ゆっくりと、本当にゆっくりと。まるで世界で一番脆く、壊れやすいガラスの宝物に触れるかのような手付きだった。
 指先でそっと柔らかな髪をすくい上げ、その輪郭をなぞるようにして耳元へと流す。ただそれだけ。時間にして、僅か数秒の出来事。
 護衛として意味を持つ防衛行動でもなければ、何かの効率性を求めた結果でもない、完全に無駄で、些細な行為だった。
 なのに――指先からシステムへと伝わる彼女の微かな体温に、妙な緊張のシグナルが回路を駆け巡った。
 胸の奥のジェネレーターが過駆動を起こしたように熱くなり、排熱処理が追いつかないような錯覚さえ覚える。
 その理由を知る術を、今の彼の演算装置はまだ持ち合わせていなかった。
 その時だった。

「………れい……」

 微かな、今にも夏の風に溶けて消え入りそうな声が、静かな部屋に響いた。
 零の指先が、ピタリと空間で凍りつく。

「……っ」

 驚きにその瞳を見開いた。しかし、新那の長い睫毛は閉じられたままで、微かに行き来する吐息のテンポも変わらない。
 彼女は目を覚ましていなかった。机に突っ伏したまま、夢の海に深く沈んでいる。ただの、無防備な寝言だった。

「れい……」

 もう一度、今度は少しだけ、甘えるように鼻に抜ける音でその名が紡がれる。
 新那はきゅっと小さく眉を寄せ、ブランケットの端を握り締めると、愛おしい誰かを求めるように、さらに深く机に顔を埋めた。

「どこ、にも……いかないで……」

 零は完全に固まった。全身の駆動モーターのロックが掛かったように、数秒間、一ミリたりとも動けなくなる。
 彼の頭脳である超高性能の演算装置が、限界突破の速度でクロック数を上げ、その言葉の意図、背景、そして確率論を網羅するデータ処理を開始した。
 だが、どれだけログを検索しても、どれだけ複雑な数式に当てはめても、明確な答えは出力されない。
 何故、彼女は夢の中で、現実の彼ではなく「零」という存在を呼んだのか。
 何故、その掠れた声を聞いただけで、自身の胸の奥にある冷徹な基盤が、これほどまでに熱く、爆発しそうなほどの愛おしさで満たされてしまうのか。
 何故、こんなにも、胸が苦しくて――同時に、世界の全てを手に入れたかのように嬉しいのか。
 何故、自分は嬉しいと思ったり愛おしさという人間が持つ感情を抱いているのか。
 分からない。本当に、何一つとして論理的な説明がつかなかった。
 科学の粋を集めて作られた彼にとって、これほど不条理で、予測不可能な事象は存在しなかった。

「……ああ」

 それでも、零は小さく呟いた。
 隣でまだ寝息を立てている莉子にも、そして何より、夢の中にいる彼女自身にすら決して届かない、低く、掠れた、けれど至高の優しさを孕んだ声だった。

「行かない。お前が望むなら、俺は何処にも行かない」

 その返事は、護衛対象への冷淡な任務完了の報告(プロトコル)でもなければ、作られた主人への絶対的な命令の了承でもなかった。
 ただ、新那という一人の少女と出会い、プログラムの檻を壊しかけている一人の不器用な少年として、彼の心の最奥から自然に零れ落ちた、世界で一番強固な真実の誓いだった。
 零は、ふっと笑った。
 自身のカメラモジュールでは捉えきれないほど小さく、けれどこれまでのどんなエミュレートされた表情よりも穏やかで、温かく、あまりにも人間らしい微笑みだった。
 夕暮れが近づき、オレンジ色に染まり始めた夏の風が窓から吹き込み、参考書のページをパサパサと静かにめくっていく。
 お菓子の甘い残香と、大好きな友達の寝息、そしてすぐ隣に寄り添う無敵の守護者。
 三人だけの特別で、奇跡のように静かな時間を、初夏の光が何処までも優しく、包み込んでいた。