「まず、数学からだ」
零がパン、と小気味よい音を立てて問題集を開く。
その一切の無駄を削ぎ落としたシャープな動作には、一ミリの迷いも停滞もない。
「この問題は、提示された公式をそのままマトリクスに当てはめるだけで解ける。したがって、解答に掛かる時間は概ね五秒」
「終わらないよぉ!」
莉子が即座に机に手を着いて身を乗り出さんばかりに叫んだ。
しかし、零は本気で不思議そうに首を傾げる。
「何故だ。公式のデータはすでに脳内メモリに記憶しているだろう」
「してない! 脳内メモリって何? 記憶してない!」
「では、今この瞬間に覚えればいい」
「それが出来たら苦労しないって言ってるのー!」
開始僅か三分。早くもいつもの平行線の押し問答が始まり、新那は思わず手で口を覆って吹き出した。
体育祭のあの奇跡の激走以来、零は驚くほど人間らしくなった。
不器用に笑うことも、感情を掠れさせることも覚えた。
けれど、ひとたび「勉強」というデジタルな論理の世界に戻ると駄目だ。
隠しきれない超高性能AIのスペックが、容赦なく前面に押し出されてしまう。
「零」
「何だ、お嬢」
「莉子ちゃん基準で教えてあげて。一般高校生の、平均値のラインで」
「犬丸基準……」
零はそに瞳を一瞬だけ左右に振った。
恐らく脳内で、莉子のこれまでの小テストの成績データと、人類の一般的な脳細胞の処理速度を照らし合わせて演算しているのだろう。
数秒のフリーズの後、彼は大真面目な顔で告げた。
「了解した。俺の思考出力を九十二%制限し、難易度をそこからさらに下方修正すればいいのだな」
「私の脳みそ、そんなにスペック低いの!? 下げ幅がエグい!」
莉子がガシガシと机を叩き、新那はもうお腹が痛くなるほど笑っていた。
それから三十分後。
零が限界まで噛み砕き、新那が「つまりこういうことだよ」と翻訳機を挟むようにして進めた結果。
「……どう? 分かった、莉子ちゃん?」
新那が覗き込むと、莉子は「うん!」と晴れやかに元気よく答えた。
「本当に?」
「うん! 完全に脳内メモリに入った!」
「じゃあ、この数字を変えただけの類題、やってみて」
「お任せあれ!」
――そして、三十秒後。
「……分からない」
「だと思った」
「なんでぇ!? 数字が変わったら急に見知らぬ他人になるんだけど!?」
はぁ、と新那と零の、全く息の合った綺麗に重なる溜息が部屋に落ちた。
数式という名の冷徹な弾丸の前に、数学の範囲を終える頃には、莉子の脳は完全に限界を迎えて煙を吹いていた。
「休憩……。神条先生、脳内麻薬が切れた……」
「まだ開始から四十分しか経過していない。人間の集中力持続の最低限界値以下だ」
「死ぬ、本当に死ぬ……」
「当機のセンサーは、お前の生命維持に一切の異常を検知していない。死なない」
「死ぬの! 精神が死ぬの! 神条先生が鬼畜の鬼だ……!」
零は眉をひそめ、真剣に自らの行動ログを検索する。
「俺は人道的なアプローチを遵守している。鬼ではない」
「そこじゃないってば!」
結局、新那の「まぁまぁ」という執成しにより、十分間のインターバル(休憩)が与えられた。
その瞬間、莉子は「やったぁぁぁ!」と椅子の上で狂喜乱舞した。



