新那は滑り込むようにして白い机へと手を伸ばし、箱の中から小さく折り畳まれた白い紙を一枚、祈るような気持ちで掴み取った。
そのまま慣性で数歩前へと進みながら、走る足を少しずつ緩めていく。
肩で激しく弾む息を抑え、少しだけ震える指先で、丁寧にその紙を広げた。
書かれているのは、『物』か、それとも『人』か。
じっと見つめた緊張の瞬間、新那の目に飛び込んできたのは、黒いマジックの太いフォントではっきりと書かれた、あまりにもシンプルで、あまりにも重い言葉だった。
――『大切な人』
「……っ」
新那は走るのを完全に止め、グラウンドの白線の真上で、突風に打たれたように立ち尽くした。
周囲を駆け抜けていく他クラスの女子達の足音も、遠くで響くマイクのアナウンスも、一瞬にして全てが鼓膜の奥でシャットアウトされる。
世界が急に静まり返ったかのような錯覚の中で、新那はただ、その三文字だけを大きく目を見開いて見つめ続けた。
大切な人。
学校行事の定番中の定番である、ちょっと甘酸っぱくて、誰を選んだって周囲から冷やかされて盛り上がる、最高に素敵なお題。
もし自分が、普通の何処にでもある家庭に生まれて、普通のルートでこの高校に入学していたなら。
きっと、迷わず一番に仲良くなってくれた莉子のところへ笑いながら走っていっただろう。
あるいは、ほんの少しだけ頬を赤く染めながら、クラスのちょっと気になる男の子の元へ、気恥ずかしそうに駆け寄っていったのかもしれない。
それがきっと、この場所における正しい「普通の女子高生」の選択だ。
けれど、今の新那の脳裏には、そんな絵に描いたような「普通の選択肢」なんて、これっぽっちも、一ミリも浮かんでこなかった。
今、新那の脳裏を濁流のように駆け巡り、胸の奥を激しく支配したのは、この一ヶ月にも満たない短い高校生活の中で、いつも自分のすぐ後ろにいた、あの不器用な影の記憶のすべてだった。
入学しから数日しか経っていなかったのに、バケツをひっくり返したような土砂降りの雨の中を、水飛沫を上げて本気で一緒に走った、あの必死な姿。
三十八度七分の高熱を出して、世界の終わりのように孤独で心細かったあの朝、部屋の扉を開けて入ってきてくれた、あの低くて静かな声。
「任務だから」とぶっきらぼうに言い張りながらも、壊れ物を扱うみたいに慎重な手つきで額のタオルを替えて、「ここにいる」とベッドの傍に座り続けてくれた、あの圧倒的な安心感。
そして今朝、自室の鏡の後ろで、髪をアップにした自分の項に微かに触れながら、完璧な力加減でこの青い鉢巻をきゅっと結んでくれた、あのひんやりとした指先。
(機械だからとか、アンドロイドだからとか、そんなの、もう関係ない……)
寂しくて、頑丈な檻のような大きな家の中で一人ぼっちだった世界を、強引に、だけど誰よりも優しく「普通」へと引っ張り上げてくれたのは、間違いなく彼だった。
そのまま慣性で数歩前へと進みながら、走る足を少しずつ緩めていく。
肩で激しく弾む息を抑え、少しだけ震える指先で、丁寧にその紙を広げた。
書かれているのは、『物』か、それとも『人』か。
じっと見つめた緊張の瞬間、新那の目に飛び込んできたのは、黒いマジックの太いフォントではっきりと書かれた、あまりにもシンプルで、あまりにも重い言葉だった。
――『大切な人』
「……っ」
新那は走るのを完全に止め、グラウンドの白線の真上で、突風に打たれたように立ち尽くした。
周囲を駆け抜けていく他クラスの女子達の足音も、遠くで響くマイクのアナウンスも、一瞬にして全てが鼓膜の奥でシャットアウトされる。
世界が急に静まり返ったかのような錯覚の中で、新那はただ、その三文字だけを大きく目を見開いて見つめ続けた。
大切な人。
学校行事の定番中の定番である、ちょっと甘酸っぱくて、誰を選んだって周囲から冷やかされて盛り上がる、最高に素敵なお題。
もし自分が、普通の何処にでもある家庭に生まれて、普通のルートでこの高校に入学していたなら。
きっと、迷わず一番に仲良くなってくれた莉子のところへ笑いながら走っていっただろう。
あるいは、ほんの少しだけ頬を赤く染めながら、クラスのちょっと気になる男の子の元へ、気恥ずかしそうに駆け寄っていったのかもしれない。
それがきっと、この場所における正しい「普通の女子高生」の選択だ。
けれど、今の新那の脳裏には、そんな絵に描いたような「普通の選択肢」なんて、これっぽっちも、一ミリも浮かんでこなかった。
今、新那の脳裏を濁流のように駆け巡り、胸の奥を激しく支配したのは、この一ヶ月にも満たない短い高校生活の中で、いつも自分のすぐ後ろにいた、あの不器用な影の記憶のすべてだった。
入学しから数日しか経っていなかったのに、バケツをひっくり返したような土砂降りの雨の中を、水飛沫を上げて本気で一緒に走った、あの必死な姿。
三十八度七分の高熱を出して、世界の終わりのように孤独で心細かったあの朝、部屋の扉を開けて入ってきてくれた、あの低くて静かな声。
「任務だから」とぶっきらぼうに言い張りながらも、壊れ物を扱うみたいに慎重な手つきで額のタオルを替えて、「ここにいる」とベッドの傍に座り続けてくれた、あの圧倒的な安心感。
そして今朝、自室の鏡の後ろで、髪をアップにした自分の項に微かに触れながら、完璧な力加減でこの青い鉢巻をきゅっと結んでくれた、あのひんやりとした指先。
(機械だからとか、アンドロイドだからとか、そんなの、もう関係ない……)
寂しくて、頑丈な檻のような大きな家の中で一人ぼっちだった世界を、強引に、だけど誰よりも優しく「普通」へと引っ張り上げてくれたのは、間違いなく彼だった。



