ポンコツ執事なのに、お嬢様に溺愛される

 自分の何処にそんな力があったのか分からないが、格ゲーで培った戦闘知識が役立ったようだ。
 次はどんな動きに出る。視界に男だけを映し、神経を研ぎ澄ませた。

「……くそ、くそぉ! 白鷺め、何処にこんな奴を隠してやがったぁぁぁ!」

 明らかな強者感を醸し出していたはずなのに、今や乱暴に腕を振り回すだけ。
 わざわざ見極めなくとも、簡単に躱せてしまった。
 突き、蹴り、突き、蹴り、蹴り。
 次の瞬間、懐から鈍い光が見えたかと思うと眼前にナイフの切っ先が飛び出す。
 突き出された刃が、一直線に迫った。

(——まずい)

 避けきれない。そう理解した瞬間、身体が僅かに遅れる。
 反射的に目を閉じると、世界が止まったように感じた。
 音が消える。
 空気の流れすら、途切れる。
 ただ、心臓の鼓動だけがやけに大きく響いていた。

 ———トクン、トクン。

 ほんの一瞬だけれど、永遠にも思える静止。
 次の瞬間、何かが弾けるような音と共にナギサははっと目を開いた。
 目の前で刃が止まっている。
 あと数センチ。確実に届いていたはずの距離で、ぴたりと動かない。

「……っ?」

 視線を上げると、そこには一人の男の背中があった。
 伸ばされた手がナイフの刃を素手で掴んでいる。血が滲んでも、微動だにしない。

「——……随分と、無粋な真似をするなぁおい」

 低く、静かな声は、屋敷の中でもよく耳にする若い男の声。
 振り返ることもなく淡々と告げるのは、紛れもないナオだった。
 そのまま、掴んだ刃ごと腕を捻ると男の動きが強引に止められる。完全に、制圧されていた。
 男の腕が不自然な角度で止まる。関節が軋む音が、静かな地下に響いた。

「っ……!」

 短い呻きが漏れ聞こえるが、ナオは表情一つ変えない。
 刃を握ったまま、さらに一歩踏み込む。
 男との間合いを完全に奪い、逃げ場を消した。

「武器を抜く時点で、格は落ちるんだよ」

 淡々とした声音は、叱責でも怒りでもない。ただ、事実を告げるだけの冷たさ。
 ナオの足が、男の膝裏を正確に打ち抜く。
 体勢が崩れると同時に、捻り上げていた腕にさらに力が加わった。耐えきれず、男の手からナイフが滑り落ちる。
 乾いた音を立てて床に転がると、そのまま、ナオは一切の無駄なく、男を地面へと押さえつけた。
 完全な制圧。抵抗の余地はない。

「動くな」

 なけなしの力を振り絞って抵抗しようとする男を押し付け、あっという間にナオが優位に立っていた。

「な、ナオさん……どうして」
「んー? 命令されたんだよ、あんたを連れ戻すようにさ」

 ナオは振り返らないままそう言う。ナギサは、しばらく声を出せなかった。
 さっきまで、自分が対峙していた相手。
 あれほどの圧を放っていた男が今は地に伏しているという現実に、理解が追いつかない。

「その……助かりました……」

 ようやく絞り出した声は、思った以上に掠れていた。
 ナオはそこで初めて、ほんの僅かに視線だけを寄越す。

「まあ、無事で何より」

 それだけ言うと、再び男へと意識を戻した。まるで、これが当然であるかのように。