ポンコツ執事なのに、お嬢様に溺愛される

 痛みはある。
 怖さも、確かにある。

(でも……楽しいや)

 自分でも信じられない感情が、胸の奥から滲み出た。
 思考が澄んでいき、さっきの一瞬が何度も頭の中で繰り返される。
 踏み込みの間合い。
 腕の軌道。
 力の乗せ方。
 断片だったはずの動きが、繋がっていく。

(今のは、投げへの派生……)

 “ガードしても反撃は成立しない”
 “距離の管理が異様に上手い”
 “牽制主体で、崩しは最小限”
 頭の中で、言葉にならないはずの理解が形を持っていく。
 止まらない。
 思考は一度もたつくことなく次々と組み上がり、先ほどの一撃すら材料に変えて精度を増した。
 分析がさらに深く、速く、加速していく。
 その変化を感じ取ったのか、男の眉がほんの僅かに動いた。

「……まだ来るか」

 低く落ちる声が、静まり返った空間に滲む。
 ナギサはゆっくりと身体を起こした。軋むような痛みを無視して、足に力を込める。
 口元に滲んだ血を、手の甲で乱暴に拭った。

「行くに決まってんだろ。ここまで来たんだからさぁ……っ!」

 吐き出すように言い切ると同時に、ナギサは再び地面を蹴った。
 視線を外さない。
 逸らせば、そこで終わる。だから、真正面から捉え続けた。

(次は——読み勝つ)

 男の肩が僅かに沈み、瞬きの合間に踏み込んで飛び出してくる。
 その瞬間をなぞるように、ナギサも前へ出た。
 間合いが一気に潰れm空気が押し潰されるような圧が交差する。
 ほんの刹那。けれど、その一瞬がやけに長く引き伸ばされたように感じられた。

(——下、前、前……ここだっ!)
 
 思考をなぞるより早く、身体が応じる。
 肩の僅かな揺れ。
 踏み込みの癖。
 重心の乗せ方。
 全てが、さっきと同じ軌道を描いていた。

(同じ択なら——)
 
 ナギサは迷いなく身を沈める。一直線に伸びてきた拳の下を、紙一重で潜り抜けた。
 風を裂いた一撃が、背後を掠めていく。
 そのまま勢いを殺さず、滑り込むように距離を詰める。
 ナギサは、相手の懐へと踏み込んだ。

「——っ!」

 今度は掴まれないよう、そのまま渾身の一撃を叩き込む。
 鈍い感触が全身に駆け巡り、確かに入った。
 男の身体が僅かに揺れ、初めて保たれていた態勢が崩れる。

(通った……!)

 だが、次の瞬間、背筋に寒気が走る。

(まだだ)

 男の目が、完全に“戦闘のそれ”に変わっていた。
 試しは終わり、次は本気が来る。
 ナギサは、無意識に拳を握り直す。