ポンコツ執事なのに、お嬢様に溺愛される

 なのに、“消す必要があった者”とは。

「白鷺はな、ただの“金融の家”じゃない」

 男はわずかに視線を逸らし、遠い記憶をなぞるように息を吐いた。
 その仕草に、ただの脅しではない“実感”が滲む。

「過去に一度、完全に“潰れかけている”」

 その一言が、やけに重く胸に落ちた。
 聞き流せば済むはずの言葉なのに、何処か現実味を帯びて離れない。

(……潰れかけた?)

 そんな話、誰からも聞いたことがない。
 白鷺家は世界的な財閥だ。そんな事実があるなら、公に知られていないはずがないのに。
 ミアやケイゾウは愚か、イツキ達からもそんな話は聞いたことがない。

「その時何があったか、お前は何処まで知っている?」
「……何も」

 本当に何も知らない。知っているのは、今目の前で告げられている“断片”。

「なら、ちょうどいい」

 男の気配が、すっと冷えた。
 先ほどまでの探るような間合いが消え、ただ一つの結論に収束していく。
 対してナギサは、息を整えることも忘れたまま、拳を握り直す。
 逃げるという選択肢が、頭のどこにも浮かばなかった。

「知らないまま終わるか」

 被っていたフードをより深く被り、一歩踏み出しながら続ける。

「知った上で消えるか」
 
 張り詰めていた空気が、ふいに裂けた。
 目には見えない圧が肌を刺し、息がわずかに詰まる。
 その気配に押し出されるように、ナギサの身体はほとんど無意識のまま構えを取っていた。

(……ふざけんな)

 思考はまとまらないまま、断片だけが頭の中をぐるぐると巡る。
 七人。
 消された執事。
 白鷺家の過去。
 どれも輪郭を持たないまま、ただ不穏な重さだけを残していた。
 理解できない。
 けれど、理解できないからといって、ここで立ち止まる理由にはならない。
 震えを押し込めるように、ナギサはゆっくりと拳を握り込んだ。

(僕は、八人目だ)

 その言葉だけが、やけに鮮明に胸の奥へ沈んでいく。
 意味も理由も分からない。ただ、消えずに残っていた。

(勝手に終わらされる気はない)

 小さく息を吐き出し、ナギサはゆっくりと顔を上げた。
 揺れていた視界が、すっと定まる。
 目の前に立つ男を今度は逸らさずに捉えた。

「……どっちも選ばないよ」

 静かに言い切ると、男の目の色が僅かに変わった。

「そうか」

 次の瞬間、張り詰めていた空気が弾けた。
 男が間合いを潰すように、一歩踏み込む。

 ——速い。

 視界が追いつく前に景色が揺れる。
 考えるより先に身体が動いた。
 咄嗟に身を捻ったその直後、つい先まで顎があった空間を風を裂く拳が掠めていく。

「っ……!」

 遅れて風が頬を撫でた。叩かれたような圧が、じわりと皮膚に残る。

(今の、見えなかった……いや——)

 否定するように、思考を切り替える。
 違う。
 見えなかったのではない。

 ——“読みきれなかった”。

 ナギサは息を整えながら、僅かに後退する。足裏で床を確かめるように、半歩だけ距離を引いた。
 だが、男は追ってこない。
 踏み込んだ位置でぴたりと止まり、ただ静かにこちらを見据えている。

(……様子見?)

 その立ち方に、妙な既視感があった。
 無理に攻めない。
 無駄に動かない。
 ただ相手の動きを待つ、研ぎ澄まされた静止。

 ——対戦開始直後の、あの間。