ポンコツ執事なのに、お嬢様に溺愛される

 鈍い音を立てながら開いた扉が閉まりきる前に飛び込み、薄暗い空間の中で男の影を探す。
 男の足音が、コンクリートの床に乾いた反響を残して止まる。
 それきり、空気が動かなくなった。

「はあ………はあ……」

 遠くでアイドリングしている車の低い振動だけが、辛うじてこの場が現実であることを示している。
 ナギサは一歩も踏み込まない。距離を測るようにして、視線だけで相手をなぞる。
 背丈、体格、重心の置き方。僅かに開いた足の角度。肩の力の抜き具合。
 どれだけ一般人に扮していても、隠しきれない正体というものは存在する。

(只者じゃない。一人で来たのは失敗だったかな……)

 そう判断するまでに、時間は掛からなかった。
 逃げるための動きではない。むしろ、迎え撃つために整えられた“形”。
 ナギサが追いかけて地下駐車場に来るまでを予測していたとしたら。
 
(罠だったのか)

 背を向けたままの男の肩が僅かに揺れる。それだけで、空気が張り詰めた。

「ああー……作戦が台無しじゃないかぁ」

 地下駐車場に響く低い声を発した後、男はゆっくりと振り返る。
 視線が合った。宵闇に浮かぶ二つの光。
 逸らせば終わる、そんな緊張があった。
 ナギサの喉が僅かに鳴る。自分でも驚くほど、心臓は静かだった。

(……変だな)

 もっと焦っていいはずなのに。逃げ出したくなってもおかしくない状況なのに。
 影の中に辛うじて見える口元が不敵に歪んでいる。
 ただ、目の前の相手から目を離せない。思考が、妙に澄んでいく。

「お前が例の八人目の執事だな」
「貴方は誰だ」

 男が一歩だけ踏み出し、靴底が擦れる音がやけに大きく響いた。
 それに呼応するように、ナギサの身体も僅かに沈む。
 自然と、構えに近い姿勢になっていた。
 教えられたわけでもない。けれど、身体が勝手に“そうしろ”と告げてくる。

「白鷺の籠の中の鳥。佐倉の決して開かぬ金庫の扉……くくっ」

 男の口元が僅かに歪む。
 笑っているのかどうかも分からない、曖昧な変化が垣間見えた。

「ああ、ああ……なるほど」

 低く抑えた声は、思いがけず溢れ出したようだった。
 それだけで十分、相手がこちらを“値踏み”しているのが分かる。
 視線がゆっくりとナギサの全身をなぞった。
 まるで、何処から壊すかを決めているかのように。
 次の瞬間には、何かが起こる。そんな確信だけが、この場に満ちていた。