ポンコツ執事なのに、お嬢様に溺愛される

 そんな穏やかな時間が慣れていた時、壁掛け時計の鐘の音が部屋中に響き渡る。
 その瞬間、ミアの顔つきが変わった。

「時間ね」

 壁掛け時計の時刻を確認すると、触れていたナギサの肩から手を離す。
 マアサが部屋の扉を開け、出ていくミアの後をカバンを持ったルナが追いかけていった。
 遅れて立ち上がったナギサも部屋を出て、先を歩く三人の背中を眺める。

(なんか、家族みたいだな)

 マアサが母親、長女がミア、次女がルナ。血は繋がっていない。身分も生まれも違う。
 けれど、三人の間には確かな信頼関係がある。
 
「笘篠。ぼんやりしてないで早く来なさい」
「あ、すみません」

 普段の華やかなワンピースとは打って変わって、街中にいても違和感のない姿は見慣れない。
 白鷺家の令嬢ではない彼女が目の前にいる事実に、何処か現実味が感じられなかった。
 廊下を進む足音が、やけに静かに響く。
 いつもと同じ屋敷のはずなのに、今日だけはどこか違う場所のように感じられた。
 豪奢な調度も、磨き上げられた床も、全てが少しだけ遠い。
 玄関へと続く長い廊下の先、重厚な扉が見えてくる。

「お相手は佐倉家の御子息だと聞きましたが、どうかお気をつけて」

 玄関扉の前で立ち止まったマアサが、振り返りながらぽつりと呟いた。
 責めるでも、止めるでもない。ただ確認するような声。

「ええ。気遣いありがとう」

 ミアは振り返らずに答える。その声には迷いがなく、むしろ楽しんでいるような色すらあった。
 小さく頭を下げるだけで、マアサは何も言わない。ただ一歩下がり、静かに道を譲る。
 その隣で、ルナがそわそわと落ち着きなく視線を彷徨わせていた。

「あ、あの……お嬢様、その……えっと……」
「何? ルナ」
「き、気を付けてくださいねっ!」

 ようやく絞り出した言葉は、それだけだった
 けれど、その一言に込められた感情は、十分すぎるほど伝わってくる。

「ルナもありがとう」

 少しだけ肩を竦めながら、ミアはようやく振り返った。

「大丈夫。ちゃんと帰ってくるわ」

 軽く言ったその言葉に、ルナの表情がぱっと明るくなる。
 マアサは何も言わない。ただ、その様子を静かに見つめていた。

(……やっぱり、家族みたいだ)

 ナギサはその光景を少し離れた位置から眺める。
 自分はその輪の中にはいない。けれど、完全に外でもない。曖昧で、居心地の悪くない距離。

「笘篠」
「はい」
「行くわよ」
 
 前を見据えるミアの隣に立つと、マアサが一歩前に出た。

「……お嬢様。くれぐれも、“白鷺”であることをお忘れなく」

 一瞬だけ、空気が張り詰めた。先ほどまでの柔らかさが、すっと引いていく。

「分かってる」

 返事は短いが、その一言で十分だった。
 マアサはその返事を聞くと小さく頷き、扉に手を掛ける。
 ゆっくりと開かれていく重い扉の向こうには、屋敷の外の光が広がっていた。
 日常と、非日常の境界線。その一歩手前で、ナギサは小さく息を吸う。

(——……始まる)

 デートという名の作戦は、失敗した時点で終わる。交わる三家、全ての未来が崩れる。
 それでも、始めると決めたからには進むしかない。

「行きましょうか」

 ミアが一歩踏み出し、数歩進んだ先で振り返る。
 そんな彼女を追うように、ナギサもまた外へと足を踏み出した。