ポンコツ執事なのに、お嬢様に溺愛される


『……で? 覚悟はできてんのかよ、地味助』

 軽い調子のまま、浬がぽつりと落とす。
 ふざけた声音だったはずなのに、その一言だけが妙に重く耳に残った。

「覚悟って……」
『失敗すりゃ終わりだろ。お前も、ミアちゃんも』

 冗談めかした響きはそのままに、言っていることは笑えない。
 ナギサは、無意識にスマホを握る手に力を込めた。
 分かっている。これはただの“お遊びの作戦”なんかではないことくらい。
 白鷺と天城、二つの巨大な家に喧嘩を売るようなものだ。

「そう、だね。やってやるよ」

 白鷺家に来てから何度も見たミアの顔が浮かぶ。
 初対面で毒を吐いてきた時の顔、年相応の笑顔、婚約をぶっ潰すと決心した時の不敵な笑み、ふとした時に見せる寂しそうな横顔。
 どれも嘘ではないと知っているから。

『……はっ』

 少しの沈黙の後、スマホの向こうから溢れ出した笑い声が聞こえた。

『いいじゃん。そういう顔、嫌いじゃねぇよ』
「顔は見えてないでしょ」
『声で分かるっつーの。伊達に人間観察してねぇからな』

 大学へ向かう道で偶然鉢合わせ、ダル絡みをしてくる“佐倉君”の一面が垣間見えた。
 どちらが素の彼なのかは分からない。
 ただ、佐倉家の御曹司である浬も、同じ大学に通う同級生の浬も、どちらも浬であることは変わらないだろう。

『じゃあ、明日な』
「明日?」
『時間は、だいたい昼過ぎ。場所は送る。ミアちゃんにはもう話通してあるから』
「え、ちょっ——」

 明日と言っても、今はもう日も沈みかけている時間帯。
 あまりにも急過ぎると言い返そうとすれば、それを予測していたように浬の声が遮った。

『遅れんなよ、地味助』

 そう言い残した浬が電話を切ったことで、会話は終わる。ぷつり、と無機質な音だけが残った。

「……ほんと、自由だなあいつ」

 ぽつりと零して、電源を切ったスマホを下ろす。
 しんと静まり返った部屋に、再び現実が戻ってくる。
 カーテンの向こうでは、相変わらず鳥が鳴いていた。その穏やかな音が、これから起こることとはまるで無関係のように響く。

(明日、か……)

 婚約を破断にするためにミアと浬が偽装恋人として作戦を決行する日。
 そして、デートの様子を見せつけられる日。
 一瞬だけ、胸の奥に引っ掛かるものがあった。 けれど、それを言葉にする前にナギサは首を横に振る。

「……関係ないだろ」

 これは、ミアの婚約を破断させるための仕事だ。それ以上でも、それ以下でもない。
 明日に備えて、やるべきことはいくらでもある。
 私情を挟むべきではないことくらい、痛いほど理解していた。