ポンコツ執事なのに、お嬢様に溺愛される

 ほんの少し前まで自分が考えていたことが、急に軽薄に思えてくる。
 婚約がどうだとか、作戦がどうだとか、そんな話ではない。
 もっと根の深い、簡単には触れてはいけない領域に足を踏み入れてしまった気がした。

「不用意に外へ出すな。接触する人間も選びなさい」
「……承知しております」

 短い応答だけなのに、“管理されている”という響きが強く残る。
 自分は今、知らなくていいことを知ろうとしているのだ。もう半分は知ってしまっている。
 引き返すなら今しかない。そう思うのに、足が動かない。
 逃げたくなるのに、逃げてはいけない気がする。
 そんな矛盾した感情に縫い止められたまま、ナギサはただ息を潜めていた。
 やがて、室内の気配が僅かに変わる。

(話が終わったのか?)

 そう思った瞬間、ナギサは慌てて体勢を整え、壁から離れると何食わぬ顔で廊下を見渡すフリをした。
 次の瞬間、ガチャリ、と扉が開く。
 反射的に視線を逸らすと、耳に一人の足音が届く。
 微かに動かした視界の端に映ったのは、見慣れたメイド服。

(やっぱりカリンさんだったのか)

 顔を上げた時には、すでに彼女はナギサとは反対方向へと歩き出していた。
 呼び止めるべきか。それとも、後で機会を見計らうか。
 この状況で声を掛ければ、今の話を聞いていたことを悟られる可能性がある。

(でも、ここで逃したらまた迷うだけだ)

 喉の奥がひりつこうとも、一度決めた覚悟を蔑ろにするわけにはいかない。
 さっきまで潜めていた呼吸が急に上手くできなくなっても、それでも、一歩だけ前に出た。
 床が軋んだ気がして、びくりと肩が揺れる。
 今さら引き返すこともできず、息を吸い込んで吐き出した。

「カリンさん!」

 勢いに任せてみると、思っていたよりも大きな声が出た。静まり返っていた廊下に、不釣り合いなほどはっきりと響く。
 しまった、と思った時にはもう遅い。
 数歩先を歩いていたカリンの足が、ぴたりと止まった。
 その場に落ちた沈黙が、やけに重い。
 やがて、先を歩いていたカリンはナギサの方へゆっくりと振り返る。
 無駄のない動き。けれど、その一つ一つがやけに長く感じられた。
 視線が合い、逃げ場がなくなる。
 まるで、何かを見透かされているような、試されているような錯覚に陥った。

「……ナギサ」

 先に口を開いたのは、カリンの方だった。
 冷え切ったいつもと変わらない落ち着いた声音。けれど、その奥にあるものを測りかねる。

「こんな所で、一体何の用?」

 決して怒っているわけではないはずなのに、言葉にはそう思わせるほどの鋭さがある。
 ナギサは呼び止めておいて、何を言いたかったのか忘れてしまいそうだった。