ポンコツ執事なのに、お嬢様に溺愛される

 一歩踏み込めば、四方八方から矢が飛んでくる。あるいは扉の目の前に落とし穴がある。
 そんな罠が張り巡らされていると思わないと、この緊張感には耐えられそうにない。
 そう判断して、ナギサはそっと扉から手を離した。
 代わりに壁に背を預け、気配を殺すように息を浅くする。

(ここで待つしかないか)

 完全にタイミングを逃した。今さらノックして入るなんて、自殺行為に等しい。
 ならば、終わるのを待つしかない。
 そう割り切ったはずなのに――……。

「……例の件は、もう時間の問題です」

 扉の向こうから、やけに張り詰めたカリンの声が漏れてくる。
 ナギサは気配を押し殺したまま、聞き耳を立て続けた。

「分かっている。だからこそ、無駄な遅延は許さない」

 続くアキラの声は、相変わらず静かで容赦がない。

「白鷺と天城が結べば、盤石になる。逆に言えば――」

 そこまで言ったところで、一瞬だけ言葉が途切れた。
 僅かな間だが、その沈黙にこそ意味があるように感じられる。

「崩れる余地がある今の内に、全て整えておく必要があるということだ」

 感情の揺れが一切ない淡々とした声。それなのに、その一言が落ちた瞬間、空気の重さが一段増した気がした。

(崩れる……? 例の件って何だ?)

 胸の奥が、ざわりと揺れる。
 婚約を破断させようとしている自分と、何処かで繋がってしまいそうで。
 聞いてはいけない気がするのに、耳が離れない。

「お嬢様の動きは?」
「……把握しております。ですが――」
「監視は怠らないように。あの子は、何をするか分からないからね」

 ゆっくりと動いていたはずの心臓が、継続的に激しく暴れ出す。
 今のアキラの一言が、やけに生々しく耳に残った。
 ただの確認ではない。
 紛れもない命令だ。それも、日常的に行われているもののような迷いのない言い方。

(監視って……)

 背中に、じわりと汗が滲む。
 冗談や比喩ではない。本気で、“見張っている”という意味。
 軽い気持ちで始めたことが、思っていた以上に大きな流れの中にある気がして。
 逃げたくなるのに、足は動かない。