ポンコツ執事なのに、お嬢様に溺愛される

 屋敷に来た頃にはすでに空が焼け始めていて、髪を切った時には窓の外は暗くなっていて。
 今日はこのまま終わるんだろうなと、呑気にも思ってしまっていた。
 けれど──。

「お前、テーブルマナーすら知らないのか?」

 待っていたのは、先輩執事イツキによる厳しいテーブルマナー講座だった。

「フォークの向きが逆。ナイフで肉を引き寄せるな」
「す、すみませぇん……!」

 知っているか、イツキ。
 数時間前までの凪冴という人間は、カップラーメンを割るのに失敗した割り箸で食べていたんだ。
 テーブルマナーどころか、人としてあるべき行儀をまるで知らないのである。

「スープを飲む時は手前から掬うようにするんだ。犬じゃないんだから皿に口を付けない」
「こっちの方が飲みやすくないですか?」
「そのスープ、頭からかけてやろうか」

 イツキは阿修羅なのかもしれない。色んな顔を持っているのだ。
 今の彼が見せる顔は、阿修羅の持つ顔でも一番恐ろしいもの。額に血管を浮かび上がらせ、笑っていながらも怒りが全面に出ている。

「はあ、せめてもパンを千切って食べるところだけは許す」
「囓った方が美味しいと思うんだけどなぁ……」

 漫画で見る屋敷での生活は、どれもがキラキラと輝いていて憧れる人がいるのも納得できるものだった。
 けれど、現実は自由のない厳しいもの。
 食事一つをするにも、気にしなければならないことが山ほどある。

「ねぇ、イツキさん」
「なんだ」

 かれこれ、一時間以上は続いている。時計の針は夜の八時を回っていた。

「嫌じゃないんですか?」
「何がだ」
「僕の教育係ですよ。自分で言うことじゃないですけど、僕、世間知らずだと思うんです」

 教えてもらったようにカトラリーを皿の上に八の字で置き、傍らに立っているイツキを見上げる。
 いつからここで執事として働いているのかは知らないが、イツキは英才教育を受けてきた身なのだろう。
 佇まい、言動、見目、何を取って見ても自分とは格が違う。凪冴は元々低い自己肯定感が下がっていくのを感じていた。

「……俺は、相手が旦那様であろうとミアお嬢様であろうと、嫌だと思うことはまず嫌だと言う」
「え?」

 言葉の意味が分からず素っ頓狂な声を上げれば、イツキはほんの少し緩んだ表情を向けた。

「嫌だったら、わざわざ貴重な時間を割いてまでこんなことをしていない」
「そ、それって……」
「できないことに苦しんでいる輩を見るのが好きでなぁ。お前は虐めがいがある」
「イツキさん? 手加減って知ってますよね」

 一瞬の沈黙が生まれる。薄暗い食堂で二人、不敵な笑みを浮かべるイツキと冷や汗を流す凪冴が見つめ合っていた。
 やがて、一方的に視線を逸らしたイツキが皿を片付け始める。
 こうして、長いテーブルマナー講座は終わった。