ポンコツ執事なのに、お嬢様に溺愛される

 正直、今すぐにでも家に帰りたい。その前に、イツキからは無駄になったワンプレイ分の金を請求して……。

「次」

 ぱたん、と扉が閉じられ、いつの間にか凪冴は長い廊下の真ん中にいた。
 そのまま歩き出すイツキに、凪冴は慌てて付いて行く。
 
(……無理だ。絶対逃げられない……)

 睨め付けてくるのがイツキだけならばまだしも、少し前を歩いている娘ですら時折振り返って鋭い目を向けてくる。
 ぽっと出の人間が何を、とでも言いたげな顔。
 そうだ、その通りだ。
 執事のしの字も知らない素人が誰かに仕えるなどできるはずもない。

「こちらが食堂。食事は基本ここで行う」
「はい……」
「厨房は立ち入り禁止だ。勝手に入るな」
「はい……」

 それでも、この場では自分は誰かに従う立場。逃げ出すにも、残るにしても、イツキの言葉には返事しかできない。
 情報量が多すぎて、頭に入っている気がしなかった。

(格ゲーならもう負けてるな……)

 そんな場違いなことを考える。

「次は――」
「もういいでしょ」

 イツキが次の場所へと向かおうとした時、前を歩いていた娘が足を止めた。
 振り返って向けるその視線は、真っ直ぐに凪冴に向けられている。
 人形のように整った顔立ち、青み掛かった宝石のような目がすっと細められた。

「どうせ一回で覚えられるわけないんだから」

 冷たい言い方だったが、何処か呆れたような、諦めたような響きも混じっている。

「……それは」

 イツキが何か言い掛けると、ふいっと娘は顔を背ける。
 窘めたり戸惑ったり、案外イツキという人間は人に振り回されやすい性分なのかもしれない。

「部屋くらい先に見せたら? こんなの、廊下で倒れられても困るし」

 “こんなの”。と、しっかり聞こえた。

(まあ、そうなんだけど……)

 こんな豪邸に住んでいる人間からしてみれば、築年数数十年のオンボロアパートに住んでいる凪冴のような人間は、蔑みの対象でしか無い。だから、否定できないのが辛かった。
 肩を落とす凪冴の傍ら、イツキは一瞬だけ考えるように黙り、それから小さく頷いた。

「……分かりました」

 方向を変えて凪冴に向き直ると、ほんの少し丸くなった声で言う。

「付いて来い。お前の部屋を案内する」
「え、部屋……?」

 その言葉に、凪冴はぱちりと目を瞬かせた。

(……部屋、あるんだ)

 当然といえば当然だが、今更のように実感が湧く。この屋敷に住み込みで執事として働くことになるのだと。
 娘はもう興味を失ったのか、ふいと視線を外した。

「私は戻るから」

 それだけを言い残し、別の廊下へと歩いていく。
 その背中を、凪冴は少しだけ目で追った。さっきまでの棘のある言葉とは裏腹に、その去り方は何処かあっさりしていた。

「気にするな」
「……え?」
「ミアお嬢様は、ああいう方だ」

 それがフォローなのかどうか、よく分からない。

「行くぞ」
「あ、はい!」

 慌てて返事をし、凪冴は再び歩き出す。見知らぬ屋敷の中を、見知らぬ男に連れられて進んだ。
 今でも、現実味は薄いまま。

(……ほんとに、執事やるんだな……)

 それでも、その事実だけが重く伸し掛かっていた。