ポンコツ執事なのに、お嬢様に溺愛される

 しばらく続いた沈黙は、ひどく息苦しかった。
 古びた廊下を進むたび、床板が軋む。
 窓の外では木々が風に揺れ、その影がまるで何かの手のように壁を這っていた。
 ナギサは黙ったまま歩き続ける。
 先ほど口にした言葉に、特別な意味を込めたつもりはない。けれど、アキラの空気は確かに変わっていた。
 苛立っている訳ではないし、怒っている訳でもない。
 ただ、警戒しているということがヒシヒシと伝わってきた。

「何も無いが、まあ、くつろいでくれて構わない」
「失礼します」

 アキラに連れられてやって来たのは、あろうことか彼の私室だった。
 ミアの部屋よりも一回りほど小さく、必要最低限のものしか置かれていない。殺風景な部屋だ。

「つまらない部屋だろう」
「いえ。アキラ様らしい部屋だと思います。整理整頓されていて、僕達が掃除する必要もない」
「そうだね。仕事で長く部屋を開ける時にはナオ達が掃除してくれている。君達使用人の負担を少しでも減らしたくてね」

 言葉だけ聞けば、心優しい使用人思いの主に見える。
 けれど、彼の本性を知った今では、そんなことを思えるはずもない。
 目の前にいるこの男は、己の私利私欲のために非道を歩む極悪人なのだから。

(負担、か……)

 ナギサは心の中で、その言葉を冷ややかに反芻した。
 本当に使用人を思いやる人間なら、専属のナオやカリンを自分の大罪を揉み消すための泥沼へ引き摺り込み、使い捨ての盾にするような真似は絶対にしない。
 この男の口から出る言葉は、全てが完璧に計算された「まやかし」だ。
 アキラは部屋の奥へと進み、上質な革張りのソファに深く腰掛けた。
 そして、対面にあるもう一つの椅子を顎で軽くしゃくる。

「立ち話もなんだ。座りなさい」
「……恐れ入ります」

 ナギサは促されるまま、アキラの正面に腰を下ろした。
 テーブルを挟んで、アキラの鋭い視線が真っ直ぐに注がれる。
 地下駐車場で天城の使者と対峙した時も息が詰まるような圧を感じたが、目の前のこの男が放つプレッシャーは、それとは全く異質だった。
 暴力による脅威ではない。
 全てを見透かし、こちらの選択肢をあらかじめ全て封殺しているかのような、絶対的な支配者の間合いを保っている。

(……本当に、隙がない。ただ座ってるだけなのに、何処から仕掛ければいいのか全く読めないな)

 ナギサは脳内で、ありもしないコントローラーを握るように、静かに指先を強張らせた。
 アキラの焦りを誘い出すのが今回の目的だ。だが、安易な一歩を踏み出せば、こちらがカウンターを食らって即死する。

「さて」

 アキラは組み替えた脚の上に肘を乗せ、指先を顎の下で交差させた。
 その貼り付けたような微笑の奥の瞳が、冷徹な光を放つ。

「ナギサ。君は、自分の前任者である『七人』の執事達が、何故全員この屋敷を去ることになったか……その本当の理由に、興味はあるかい?」

 ピンと糸を貼るような緊張感が辺りを満たす。
 まさかこのタイミングでアキラの口からその言葉を聞くことになるとは思わなかった。
 決して彼から視線を逸らすことはしないが、ナギサの首筋には冷や汗が滲む。アキラの目がすうっと細められたのは、それに気づいたからか。

「やはり、君はただの無知な大学生ではないね。……あるいは、佐倉の小僧から余計な『おしゃべり』でも吹き込まれたかな?」

 ドクン、とナギサの心臓が大きく跳ね上がった。