ポンコツ執事なのに、お嬢様に溺愛される

 果敢にミアの前に立つルナも身体を震わせ、明らかな恐怖を見せている。
 そんな二人を横目で見たナギサは、柔らかくした声音で言った。

「何だかんだ、アキラ様にちゃんと挨拶できてなかったし、いい機会でしょ」
 
 ナギサの瞳の奥に宿る揺るぎない光を見て、ミアは息を呑み、言葉を飲み込んだ。
 この男は、アキラの本当の恐ろしさをまだ半分も知らないはずだ。なのに、どうしてそんな目をしていられるのか。どうして、自分のためにそんなに強くあれるのか。

「……ナギサ」

 消え入りそうな声でその名を呼ぶことしかできないミアを、ナギサはもう一度だけ視線で安心させるように諭すと、ゆっくりと前を向き直した。

「では場所を変えようか」

 アキラは小さく笑い、値踏みするような目をナギサに向ける。だが、その瞳の奥にある冷徹な計算は、ナギサの想像以上に深く、鋭いものだった。
 翻る漆黒の夜会服の裾。アキラが薄暗い廊下の奥へと歩き出す。
 ナギサは迷うことなく、その背中を追って一歩を踏み出した。

(ここから先は、一歩の操作ミスも許されない本当の死線。……貴方の隠してる過去、全部表に出して壊してやる。政略結婚は断固拒否させてもらいますからね、アキラ様)

 開け放たれた空き部屋のドアが、吹き込む風でガタガタと音を立てる。
 ルナに抱きしめられながら、ミアはただ、闇の中へと消えていくナギサの背中を、祈るように見つめ続けることしかできなかった。
 廊下に響く足音は、二人分。
 古びた屋敷は夜になると妙に静かで、その僅かな音でさえ誰かに聞かれているような錯覚を覚える。
 先を歩くアキラは一度も振り返らない。だが、油断もしていない。
 その背中からは隙のない緊張感が滲み出ていた。
 まるで今この瞬間も、ナギサがどんな呼吸をしているかまで把握しているかのように。

「意外だね」
「え?」

 振り返ることなく歩き続けるアキラは、不意にそんなことを呟いた。
 聞こえなかった訳ではないが意味が分からず、反射的に聞き返してしまう。

「君は、彼らと同じ人間だと思っていた」

 彼らというのが、かつてミアの専属執事として雇われ、そして辞めさせられた七人のことを指しているとすぐに理解する。

「いつも、辞めていく時は夜だったよ。人の目につかない暗闇の中なら、逃げられると思ってね」

 だから何なんだ、なんて言えなかった。
 アキラは単なる妄想を口にしているだけ。ナギサもまた、こうした静かな夜にミアの専属執事を辞めるのではないかと言いたいのだ。
 先を進むアキラの背中を眺めていたナギサは、ふと廊下の窓に視線を向けた。

「僕、初めて見ました」

 先に立ち止まったナギサは、窓の外に広がる夜空を見てぽつりと呟く。
 
「この屋敷は山の上にあるからか、星が綺麗に見えるんですよね。ここに来る前まで住んでいたアパートからは、向かいの建物が見えるだけで空なんて見えなかった。だから、ここに来て初めて、夜空はこんなにも綺麗なんだって知りました」

 立ち止まって振り返ったアキラが怪訝な表情をする。
 そんな彼には目もくれず、ナギサは窓の外を見たまま小さく笑みを浮かべた。

「……好きに言っていなさい」

 再び歩き出したアキラの背を追いかける。