ポンコツ執事なのに、お嬢様に溺愛される

 端末の向こうで、浬の声がいつものフランクな温度を取り戻して弾けた。

『オッケー、じゃあ作戦変更。表向きは朔春都の婚約は勧めるべきではないと白鷺の旦那に思わせることで、裏にあの二人の救出ルートも組み込んじゃおう。……さあ、ここからは盤面をひっくり返すための、本当の戦いの始まりだ』
「頼むよ、佐倉君」

 通話が切れると、空き部屋には再び静寂が戻ってきた。しかし、さっきまでの重苦しい空気とは違う。
 進むべき明確な道が決まったという、静かな熱がそこにはあった。

「ありがとう、ナギサ」

 ミアは抱きしめていたクッションからそっと顔を上げ、ナギサを真っ直ぐに見つめた。

「私は、あの二人のことも家族だと思っているわ。ナオもカリンも、兄様の道具なんかじゃない。……絶対に、皆でこの檻から抜け出すわよ」
「はい。お嬢様」

 ナギサは丁寧に一礼する。
 自分の過去の記憶なんて、今はどうでもよかった。
 目の前で傷つきながらも前を向くお嬢様と、この理不尽な状況。全てを完璧にいなして、最高のエンディングを掴み取る。それだけが、今のナギサを突き動かす唯一の原動力だった。

「ナギサ君」

 ルナが頭を上げ、その不安に揺れていた瞳に、微かな、けれど確かな信頼の光を宿してナギサを見つめる。

「私も、お嬢様のメイドとして、そしてお二人の同僚として、全力を尽くしますからねっ!」
「心強いよ、ルナちゃん。――よし、行こう」

 ナギサはスマートフォンをポケットに収め、部屋のドアへと歩き出す。
 朔春との政略結婚。白鷺アキラの隠された大罪。そして、何も知らずに闇に縛られているナオとカリン。
 全てを巻き込む混沌の嵐が、すぐそこまで迫っている。

(どれだけ複雑なコマンドを要求されようが、全部読み切って、完璧にコントロールしてみせる)

 ナギサがドアノブに手を掛け、ゆっくりと扉を開け放つ。
 廊下の向こうから吹き込んでくる、白鷺家の冷たい風。新米執事としての仮面をもう一度深く被り直し、ナギサはミアとルナを従えて、光の射さない戦場へと足を踏み出した。
 と、その時。

「えらく盛り上がっていたようだね」

 一瞬にして全身から血の気を奪う低い声が目の前から聞こえた。
 ピキリ、と世界の動きが止まったかのような錯覚がナギサの全身を襲う。
 開け放ったドアのすぐ先――。
 薄暗い廊下の真ん中に、いつからそこにいたのか、一人の男が立っていた。
 白鷺アキラ。
 ミアの実兄であり、この屋敷の若き支配者。そして、先ほど浬の口から語られた、数々の悍ましい大罪の首謀者その人だった。
 背後に控えるミアの身体が、恐怖で一瞬にして強張るのが気配で分かった。
 ルナもまた、息を詰めて臨戦態勢一歩手前の緊張感を放っている。

「お兄様……」

 ミアが震える声を絞り出すが、アキラは実の妹に視線すら寄越さない。
 ただ、端正な顔立ちに冷酷極まりない笑みを浮かべたまま、その鋭い眼光を真っ直ぐにナギサへと突き刺していた。

「普段は使われない空き部屋で、身内だけで随分と楽しげな密談じゃないか。……私にも少し、その面白いお話を聞かせてくれないかな?  八人目の執事くん」

 アキラが一歩、こちらへ足を踏み出す。
 ただそれだけの動作なのに、地下駐車場で天城の使者と対峙した時以上の、圧倒的な質量を持った『圧』が部屋の中に流れ込んできた。

(……いつからいらんだ)

 ナギサの脳裏に、最悪のタイミングでステージのボスが乱入してきた時のような、冷や汗混じりの焦燥が駆け巡る。
 何処まで聞かれた?  浬との通話は?  ナオ達の救出プランは?
 あらゆる最悪の想定が頭を過るが、ナギサは新米執事の仮面を必死に張り付かせ、ミアを背中で庇うように一歩前へ出た。

「アキラ様。恐れ入ります、お嬢様の部屋の模様替えについて、少し話し合いが長引いてしまったんです」
「模様替え、ねぇ……」

 アキラはナギサの言葉を鼻で笑うと、すっと目を細めた。
 その瞳の奥にあるのは、獲物の逃げ道を完全に塞いだ捕食者の、冷徹な愉悦だった。