ポンコツ執事なのに、お嬢様に溺愛される

 イツキの淡々とした言葉が、ナギサの脳細胞を激しく狂わせる。

(待て。……何かがおかしい)

 ナギサの視界の中で、これまで見えていた盤面(ステージ)のグラフィックが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
 朔春も、ケイゾウも、本当の黒幕ではない?
 天城はただ、差し出された利権とデータに群がっただけ。
 ケイゾウはただ、白鷺という家を維持するためにそれを利用しただけだ。
 あの白い部屋で、幼い子供達を実験台にして壊し、泣いていたミアを孤独のどん底に突き落とし、その全ての過去を『なかったこと』にするために、今度は実の妹の人生すら天城へ売り払おうとしている男。

「……アキラ様だ」

 ぽつりと、ナギサの口からその名が漏れた。拳を握る手に、じわりと嫌な汗が滲む。

「気づいたようだな、ナギサ」

イツキは冷徹極まりない、しかし何処か賭けに出るような目をナギサに向けた。

「天城朔春との婚約は、ただの煙幕に過ぎない。お前やお嬢様がいくら天城を退けようと、この家にアキラ様がいる限り、お嬢様は何度でも別の籠に閉じ込められ、お前の過去も何度でも消される。……白鷺アキラこそが、この歪んだ盤面の支配者(ボス)だ」

 ゾクリ、と背筋を本物の悪寒が駆け抜けた。
 地下駐車場で対峙したあの使者よりも、ミアに馬乗りになられて迫られた時よりも、遥かに深い深淵がそこにはあった。

(画面の向こうの、ラスボスだと思っていた奴の後ろに、もう一段階凶悪な隠しボスが控えてたってワケか……)

 普通の大学生としての理性は、「そんな怪物に関わるな、今すぐ逃げろ」と叫んでいる。
 けれど、格ゲーオタクとしての本能と、そして何より――さっき、ベッドの上で泣きそうになっていた、あの小さなお嬢様を守ると決めた「執事としての本能」が、ナギサの足を完全に床へ縫い付けていた。

「ハメ技の構造は分かりました」

 ナギサは口元の血の味を飲み込み、ふっと不敵に笑ってみせた。
 去り際にお嬢様に見せたのと同じ、少しだけ戯けた、けれど瞳の奥だけは限界まで研ぎ澄まされた格闘家の笑みだ。

「どんなに強いボスでも、必ずフレームの隙はある。……イツキさん。そのアキラ様の『汚点』、俺達で盛大に引き摺り出してやりましょう」

 ナギサの言葉に、イツキは一瞬だけ驚いたように目を見張った。だが、すぐにフッと満足げに口元を緩める。その仕草一つで、彼はいつもの冷徹で完璧な「総括執事」の顔に戻っていた。

「頼もしい回答だ、ナギサ。……だが、決して油断はするな。相手は白鷺の全てを握る男。一歩間違えれば、次こそ本当に“消される”」
「分かってます」

 ナギサは椅子から立ち上がり、深く息を吐き出した。
 普通の大学生としての平穏な日々は、もうとっくに画面の向こう側の話だ。失われた記憶、お嬢様の歪な愛、そして白鷺家の闇。全てが自分の間合い(テリトリー)に侵入してきている。ならば、逃げる選択肢など初めから存在しない。

「下がって結構だ。今夜はもう休む ……いや、まずはさっきのお嬢様の部屋でのことについてのお説教からだったな?」
「あ、それは勘弁してください。お嬢様にも『叱られてくる』って言っちゃったんで、形だけで!」

 頭を掻きながら戯けるナギサに、イツキは呆れたように息を漏らした。
 部屋を出て、静まり返った廊下を歩く。窓の外に広がる夜空を見上げながら、ナギサは拳を静かに、けれど固く握り込んだ。

(待っててください、お嬢様。どんなクソゲーだろうと、俺が絶対に全ルートひっくり返してやりますから)

 見えない巨悪との本当の戦いが、静かに幕を開けようとしていた。