ポンコツ執事なのに、お嬢様に溺愛される

 部屋からナギサの気配が完全に消えた瞬間、ミアは糸が切れたようにベッドの上へ頽れた。

「……っ、───!」

 じわじわと脳内に押し寄せてきた羞恥心と焦燥感に、ミアは近くにあったクッションをひったくるように抱き寄せ、そこに顔を埋めた。

(私、なんてことを……! なんてことをしてしまったの……!?)

 思い返すだけで顔から火が出そうだった。
 ずっと探していた初恋の人が目の前にいると確信して、頭がどうにかなりそうだったのは事実だ。けれど、いくら彼が自分の境界線を拒もうとしたからって、あんな、馬乗りになって押し倒すなんて――。
 白鷺家の令嬢としての教養もプライドも、あの瞬間の自分は全てドブに捨てていた。完全に意地になって、どうかしていた。
 おまけにその最悪の現場を、よりによってイツキに見られるなんて、これ以上の人生の汚点があるだろうか。
 クッションに顔を押し付けたまま、ミアは足をばたつかせた。
 ナギサに「は?」と呆れられた時の冷ややかな視線が、今になって胸をチクチクと刺す。嫌われてしまったかもしれない。引かれてしまったに違いない。

「……馬鹿」

 呟いた声は、クッションに吸い込まれて酷く小さく響いた。
 自分に対する罵倒のつもりだった。だが、同時に脳裏に浮かぶのは、去り際の彼の顔だ。

『ちょっと、イツキさんに叱られてきますね』

 最後に、困ったように戯けて笑ったあの顔。
 ずるい。あんなの、ずるすぎる。
 クッションを抱き締める腕に、自然と力が籠もる。
 ドキドキと、さっきまでとは違う意味で心臓が五月蝿く高鳴っていた。

(――ああ、やっぱり)

 確信が、胸の奥で甘い熱を持って広がっていく。
 ただ過去の執着で探していたわけではない。
 普通の大学生になって、少し頼りなくて、でも自分の前で一生懸命に『執事』でいようとしてくれる、今のナギサが。

「……好きだなぁ」

 誰もいない静かな寝室で、ミアはぽつりと自分の本当の気持ちを認めるように呟いた。
 顔の熱は、一向に冷める気配がなかった。

 ――白鷺の人間は、皆、孤独。

 それは幼い頃から、耳にタコができるほど周囲の大人達に叩き込まれてきた言葉だった。
 世界中の金融を牛耳る一族の娘。その肩書きがあるだけで、近づいてくる人間は誰もが品定めするような目をしていた。親族でさえ、自分を「便利な道具」か「利権の塊」としてしか見ない。
 だから、誰も信じられなかった。誰も近くに寄せ付けたくなかった。
 そんな歪んだ環境の中で、あの『しろさぎ孤児院』の白い部屋に閉じ込められていた時。
 一人で膝を抱えて声を殺して泣いていた自分の前に、ひょっこりと現れたのがあの子だった。
 いつも顔や腕に新しい包帯を巻いていて、酷い怪我ばかりしている男の子。
 大人の言うことを聞かないからと、何度も罰を受けて、いつもボロボロだった出来損ない。
 あの子は、ミアが白鷺の人間だなんて知りもしなかった。興味すらなかった。
 ただ、泣いているミアを見て、ひどく場違いで純粋無垢な笑顔を浮かべたのだ。

『泣いていたら、幸せが逃げるよ』

 自分が一番痛そうな癖に何故かミアを心配して、小さな掌で頭をぽんぽんと不器用に叩いてくれた。
 あの時、生まれて初めて触れた「無条件の優しさ」の温もりを、ミアは今でも鮮明に覚えている。

「……間違えるはず、ないもの」

 中学生より前の記憶がないと言った、今のナギサ。
 けれど、彼が自分の「異常な性質」として語った特徴――どれだけ理不尽な目に遭っても感情を乱さない頑丈さ、どんな罰にも耐えてしまう我慢強さ。
 それはまさに、あの孤児院の大人たちが『この子はまだ耐えます』と評した、あの男の子そのものだ。
 なにより、あんなにもめちゃくちゃに迫られて、内心では絶対にパニックになっていたはずなのに。それでもミアを拒絶しきれず、最後には優しく笑いかける姿。

「ナギサ……」

 愛おしい名前を、今度は確信を込めて口にする。
 記憶を消され、出来損ないとして捨てられ、普通の大学生として生きていたナギサ。
 運命が巡り巡って、そんな彼を再び自分の「専属執事」として目の前に連れてきてくれた。
 確信が、胸の奥で絶対的な決意へと変わっていく。
 彼がどれだけ「ただの使用人ですから」と間合いを取ろうとしても、もう絶対に離さない。
 自分の全てを懸けて、今度こそ彼の失われた過去も、傷ついた心も、丸ごと手に入れて守ってみせる。