ポンコツ執事なのに、お嬢様に溺愛される

「ミアお嬢様。失礼いたします。明日のスケジュールの件で少々――」

 声の主はイツキだった。ナギサに執事のイロハを叩き込んでくれた、頼れる先輩執事だ。
 イツキの足取りは、執事としてあまりにも無駄がなく、そして早すぎた。

「お嬢様、今起き上がりま――っ」

 ナギサが慌ててミアの身体を退けようとした瞬間には、すでに重厚なドアが静かに開け放たれていた。
 直後、部屋へ入ってきたイツキの動きが、視線が、完全にその場で凍りついた。
 そこに広がっていたのは、ベッドの上で馬乗りになったまま、今にも泣き出しそうな顔でナギサを見つめるお嬢様。
 そして、その下から顔を真っ青にして起き上がろうとしている新米執事の姿。

「あ……」

 部屋の中に、言葉にできないほど濃厚な沈黙が流れる。
 ナギサの脳裏に、先ほど自分が唱えた「業務規約」の文字が虚しく駆け巡った。
 どう言い訳を並べ立てようが、客観的事実として、今の自分達は『一線を越える寸前』にしか見えない。
 イツキは手にしていたタブレットを胸元に抱え直すと、一切表情を変えないまま、すっと視線を斜め下へと落とした。

「……失礼いたしました。お取り込み中とは知らず、不調法をお許しください。スケジュールのご確認は、明朝、お嬢様のお心が落ち着かれました頃に改めて」
「ち、違いますイツキさん! これには不可抗力というか、深いワケが――!」

 フレーム単位の反応速度(オタク脳)で必死に弁明しようとするナギサだったが、イツキは完璧な角度の一礼を崩さない。

「気にするな。ナギサ、後で俺の部屋に来るように。……じっくりと、業務内容の『再確認』をしようじゃないか」

 声のトーンこそいつも通り穏やかだったが、その目の奥は全く笑っていなかった。
 イツキは流れるような動作で回れ右をすると、音もなくドアを閉め、足早に去っていった。
 早々にイツキが部屋を出ていき、静まり返った室内に、また重苦しく気まずい沈黙が流れる。
 ナギサは、ベッドの上で呆然と固まっているミアを見つめた。
 こんな状況になったのは、突き詰めれば自分のせいだ。過去のフラッシュバックに囚われて、ミアを不安にさせてしまった。
 だから彼女は気を張って、意地になって、あんな大胆な行動に出るしか配置(ルート)がなかったのだ。
 ナギサは押し倒されたことにも、あの告白とも取れる重い言葉にも、あえて何も触れなかった。
 ただ、何処までも冷静な態度を崩さない。ここで自分が動揺すれば、ミアの傷をさらに深めてしまう。
 あくまでも「白鷺家の執事、ナギサ」であり続けることだけが、今の彼にできる最善の選択()だった。

「お嬢様。……こっちに」

 ナギサはそっと手を差し伸べ、ミアをベッドの上に座らせた。
 彼女はもう抵抗しなかった。ただ、感情の行き場を失ったように、じっとナギサの動きを見つめている。
 ナギサはミアの前に膝を突くと、視線を落とした。
 もみ合いになった際、右手に巻かれていた包帯が少しだけ解けて緩んでしまっていた。じくりと疼くような錯覚のあった傷跡。
 ナギサは慣れた手つきで、その乱れた右手の包帯を、丁寧に、優しく巻き直していく。
 それから、きゅっと結び目を整えると立ち上がった。

「夜も遅いのに部屋に居座ってしまってすみません。今夜は冷えるんで、暖かくしてくださいね」

 一礼し、ナギサは静かに歩き出した。
 これ以上この部屋に留まるのは、主従の境界線を踏み越えるリスクが高すぎる。
 ドアのノブに手を掛け、部屋を出ていく、その間際。
 ナギサはふと足を止め、肩越しに振り返った。
 そこには、まだ不安と寂しさが入り混じった顔で自分を見つめる、小さなお嬢様の姿があった。

「……それではお嬢様。ちょっと、イツキさんに叱られてきますね」

 いつも通りの、何処か少しだけ戯けたような、優しい笑み。
 それが、今のナギサがミアに差し出せる最大限の、そして不器用な「大丈夫です」の代わりだった。
 パタン、と。
 静かにドアが閉まり、今度こそ、部屋にはミア一人が残された。