ポンコツ執事なのに、お嬢様に溺愛される

 心臓が、耳の奥で五月蝿いほどに脈打っていた。
 あまりの熱量に、ナギサの思考は完全に停止する。
 目の前にいるのは、世界を牛耳る白鷺家の令嬢だ。その彼女が、名もなき出来損ないだった自分を何年も探し続け、そのためだけに「専属執事」の椅子を何十人も挿げ替えてきたという。
 
 ――狂っている。

 この美しく気高いお嬢様は、自分という存在に対して、異常なまでに執着している。
 背筋を駆け上がる戦慄と、それ以上に、胸の奥を激しく揺さぶる「歓喜」があった。
 求められている。あの白い部屋で壊されるはずだった自分をこの世界の頂点に立つ少女が、誰よりも深く、激しく欲していた。

(駄目だ。呑まれるな――)

 ナギサは奥歯を噛み締め、残った理性を総動員する。ミアの体に触れていた己の手を優しく、けれど明確に引き剥がした。
 そして一歩、後退る。
 じり、と二人の間に冷厳な「主従の距離」が作られた。

「……お嬢様。お言葉ですけど、それは何かの間違いだと思います」

 ナギサは深く頭を下げ、視線をベッドの上に落として表情を隠す。声が震えないように喉に力を込めて、徹底的に『執事の仮面』を被り直した。

「僕はただの普通の大学生です。過去に何があったにせよ、今の僕は白鷺家に雇われた一介の使用人に過ぎない。そんな……お嬢様の気持ちを受け入れる資格なんて僕にはない」

 それは、ナギサなりの防衛本能だった。
 これ以上彼女の近くにいれば、自分が自分でなくなってしまう。執事という境界線を失えば、白鷺の闇と、彼女の愛に一生囚われることになる。
 だが、ミアはその拒絶を許さなかった。

「……資格?」

 低く、愉しげな鈴の音のような声が響く。
 ナギサがハッとした時には、すでに遅かった。
 ミアが、その距離を躊躇なく詰めていた。
 逃げようとするナギサの胸倉を、彼女は小さな手で驚くほどの力で掴み取る。

「そんな境界線、私が許すとでも思ったの?」
「お嬢、様……っ」

 何処にそんな力があったのか、掴んでいた胸倉を押しやると、ベッドに倒れ込んだナギサに馬乗りになった。

「普通の大学生? 使用人? いいえ、違うわ。貴方は私のために用意された、私だけのナギサよ。私がそう決めたの。貴方がどれだけ執事のフリをして私を遠ざけようとしても、その身体に刻まれた『私のための本能』は消せない」

 力で言えばナギサの方が圧倒的に強い。それでもミアが掛ける圧力はナギサから逃げるという気力を削いでいった。
 彼女の瞳は、まるで極上の宝石のように爛々と輝き、同時に底なしの沼のように昏い。

「ねえ、ナギサ。私に『大丈夫です』って嘘を吐く時、貴方の心臓はどんな風に鳴っているの? 今だって、こんなに私に怯えて、昂ぶっているくせに……」

 ミアの自由な方の手が、ゆっくりとナギサの胸元に当てられる。
 衣服越しに伝わる彼女の体温が、ナギサの理性をじりじりと焼き切っていく。

「チャンスをずっと待っていたの。あなたが、自分の『異常』に気付くその瞬間を。もう誤魔化せないわよ。貴方は私の執事として、私の腕の中でしか生きられないの。……認めなさい、ナギサ」

 耳元で囁かれる、甘く残酷な命令。
 ナギサは押し倒されたまま、ただ、ミアの吐息に支配されるしかなかった。