ポンコツ執事なのに、お嬢様に溺愛される

 覚えていない。そう答えるべきだった。
 だが、喉の奥に言葉が張り付いて声にならない。
 代わりに浮かび上がってくるのは、断片的な光景ばかりだった。
 冷たい床。
 閉じ込められた薄暗い部屋。
 誰かが泣いている声。

『またお前か』

 そして、低く押し殺した男の声と、振り下ろされる何か。
 鈍い衝撃が身体を襲い、視界を朱が染め、右目を熱が覆う。
 それが紛れもない虐待であったのは、遠い昔のこと。

「……っ」

 ナギサは無意識に包帯を巻いた右手を覆った。包帯の下の傷跡が、じくりと疼く。
 そんなはずはない。傷はとうの昔に塞がっている。
 なのに、記憶だけが今になって肉を裂くように痛んだ。

「ナギサ……?」

 不安げに名を呼ばれ、ナギサはハッとして顔を上げる。不安げなミアの瞳が微かに潤んでいた。
 ミアは気付いたのだろう。ナギサの呼吸が僅かに乱れていることに。

「覚えて、いません」

 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
 否定しきれないのは、忘れるようにした過去を思い出したくないだけなのかもしれない。

 ――しろさぎ孤児院にいた子供達は、“壊れにくい子”を選ぶために育てられていた。

 なら、自分は何だったのだろう。
 選ばれる側だったのか。それとも、選ぶための材料だったのか。
 脳裏に浮かぶ記憶はどれも曖昧で、輪郭がぼやけている。
 けれど、不快感だけは異様なほど鮮明だった。
 冷たい手で顎を掴まれる感触。
 逃げ場のない白い部屋。
 「優秀だ」と笑う大人達の声。

 ――優秀? 何に対して。

 胸の奥がざわつく。
 孤児院にいた子供達は、皆“選ばれる側”だったはずだ。新しい家族を与えられ、白鷺に相応しい人間として育てられるための存在。
 だが、自分は本当にその枠だったのだろうか。
 問題ばかり起こしていた。言うことを聞かなかった。何度罰を受けても、従順になれなかった。
 そんな子供を、あの場所がわざわざ生かして残しておく理由などあるのか。
 まるで――壊れるかどうかを、試されていたように。

「……っ」

 喉が詰まる。その瞬間、ナギサの脳裏を鋭い痛みが貫いた。
 視界が一瞬だけ揺らぐ。
 また頭の中で断片的な映像が流れ始めた。
 白い蛍光灯。金属音。誰かの悲鳴。
 そして、自分を見下ろす男の声。

『この子はまだ耐えます』

 ぞくり、と背筋が粟立った。
 耐える。何に?
 呼吸が浅くなっていくナギサを見て、ミアは不安げに眉を寄せた。

「ナギサ、顔色が……」
「大丈夫です」

 反射的にそう返す。
 それは、白鷺家に雇われてから必死に叩き込んだはずの、執事としての振る舞い。

 ――どれだけ苦しくても、平然としていろ。
 ――感情を見せるな。主人を不安にさせるな。

 だが今、その身体に染み付いた“当たり前”そのものが、ずっと昔に、何者かによって植え付けられた『調教の成果』のように思えてならなかった。

「僕……何故か中学生になってからの記憶しかないんです。小学校の頃のことなんてほとんど覚えてなくて、気が付けば親戚の家で育てられていた」

 それは、自分自身でも不審に思っていたこと。けれど確かめる方法も分からず、そういうものかと諦めてもいた。
 普通の人間は、幼少期の記憶をここまで綺麗に忘れたりしない。

「記憶、喪失……?」

 ミアの声が、小さく震える。

「分かりません。ただの健忘症か、あるいは……」

 ――意図的に、忘れさせられたのか。