君の手が動く限り、俺は隣にいたいから


(綺麗だな……)

 ぽつりと、心の中でそんな言葉が零れ落ちる。
 吸い込まれそうなほど深く、けれど何処か寂しげな青。キャンバスの端に少しだけ描かれたフェンスの影が、その青さをよりいっそう引き立てていた。
 立っていることすら忘れた凌は、引き寄せられるようにその場へへたり込み、床に座り込んだままじっとその絵を見上げる。
 絵のことは何も分からない。それでも、この青だけはずっと見ていられるような、そんな不思議な感覚に囚われていた。
 時間の感覚が薄れていく中、廊下の先から静寂を破る足音が近づいてくる。
 ペタペタと、スリッパが床を叩く軽い音が静かな廊下を満たす。

「あれ、新入生? もしかして体験に来てくれた?」

 頭上から降ってきた屈託のない声に、凌はハッとして我に返った。
 見上げると、そこには見慣れないリボンを着けた、三年生と思しき一人の女子生徒が立っていた。
 少し大きめの白衣を羽織り、悪戯っぽく微笑んでいる。

「あ、えっと……」

 地面に座り込んでいた気恥ずかしさもあり、凌が困惑しながら慌てて立ち上がる。
 その間に、彼女は距離を詰めて凌の目の前に立っていた。

「好きでも好きじゃなくても、体験するのは無料だからね! とりあえず何か描いていきなよ」

 ぐいっと顔を覗き込まれ、凌は思わず一歩身を引く。

「い、いや。俺、絵はめっきり駄目で……」
「大丈夫、大丈夫!   筆と絵の具の使い方さえ分かれば絵は描けるって!」

 彼女はそう言うと、凌の腕を軽く引っ張るようにして、すぐそこにある美術室のドアへと歩き出した。
 彼女に促されるまま美術室へ向かいかけ、凌は小さく首を振る。後ろ髪を引かれるように、さっきの青空の絵にちらりと視線を向けた。
 女子生徒はその一瞬の視線の動きを逃さなかった。

「おお? 気になる? その絵」
「き、気になるというか……なんというか……」

 図星を突かれ、凌はバツが悪そうに視線を泳がせる。そんな凌の反応を楽しむように、彼女はにやりと笑って絵の前に歩み寄った。

「いい絵だよね。君はさ、その絵を見て何を思った? 何を感じた?」

 真っ直ぐな瞳で問いかけられ、凌は少し戸惑う。
 自分の内側にある感覚を言葉にするのは得意じゃない。ましてや、さっき会ったばかりの先輩が相手だ。
 けれど、嘘をつくのも違う気がして、凌はぽつりぽつりと本音を溢した。

「綺麗だなって……。あと、誰が描いたのかなって思った」

 その答えを聞いた瞬間、女子生徒の表情から悪戯っぽい笑みが消えた。
 彼女は、包み込むような優しい笑みを浮かべ、愛おしそうにその青空の絵を見つめている。
 西日に照らされた彼女の横顔があまりにも綺麗で、凌は思わず言葉を失い、その姿を見つめてしまった。

「……そっか。君には、見る目があるよ」

 静かな廊下に、彼女の柔らかい声が響く。
 この時の凌には、彼女のその言葉の意味が分からなかった。
 それが、これから始まる何かの予兆のように、胸の奥に小さく引っ掛かったままでいた。