そこには古びた丸椅子が一つだけ置かれている。
凌は紫が指さす方向を覗き込み、小さく息を吐いた。あそこなら、部屋全体を見渡せる上に、黙々と筆を動かしている部員達の邪魔にもならないだろう。
「あ、うっす。失礼します……」
誰にともなく声を描けながら、凌は部屋の隅へと移動した。
肩に掛けていた通学鞄を床にそっと下ろし、軋む音を立てないよう静かに丸椅子へと腰を下ろす。
凌が席に着いたのを見届けると、紫もまた「よし」と小さく呟き、自身の居場所へと戻っていった。
彼女の席は部屋の中央にあり、そこには大きなキャンバスが据えられている。
紫は白衣の袖を少しだけ捲り上げると、慣れた手つきでパレットといくつかの筆を手に取った。
カチャ、と絵の具のチューブが触れ合う静かな音が響く。
次の瞬間には、部長である紫の意識もまた、凌の手の届かない絵の世界へと深く沈み込んでいった。
部屋の中に流れる、濃密な絵の具の匂いと、それぞれの世界に没頭する部員達の張り詰めた呼吸。
(……静かだ)
部室の隅の丸椅子に腰を下ろした凌の視線の先では、部長の紫を含めた四人の部員達が、完全にこちらに背を向けた状態でそれぞれのキャンバスに向き合っていた。
誰一人として口を開かない。無駄な私語はもちろん、深く息を吐き出す音すらも憚られるような、強固な静寂が室内を支配している。
今、凌の耳に届いているのは、カサカサとキャンバスの目を掠める乾いた筆の音、シャッ、シャッと一定の規則正しいリズムで刻まれるデッサン鉛筆の摩擦音、そして時折、パレットの上で絵の具が練り合わせられる微かな水気を含んだ音だけだった。
(すごい……みんな、めちゃくちゃ集中してる)
凌はそんな彼らの空気感に圧倒されていた。
普段の教室での、休み時間の喧騒や、授業中のあの弛緩した空気とはあまりにもかけ離れている。
ここにあるのは、ただひたすらに自分の内側にあるものと対峙し、それを白い画面へと削り出していく、張り詰めた表現者たちの空間だった。
凌は、部員達のちょうど斜め前方に位置する席から、その横顔や背中を真剣な眼差しで静かに目で追った。
真剣に何かを創り出そうとしている人間の横顔は、素人の凌から見ても、何処か神聖で、近寄りがたいほどに美しい。
それぞれの指先から紡ぎ出される線や色が、夕暮れの光の中で命を宿していく。
絵を描くことは嫌いだった。苦手から逃げるための言い訳として「ダルい」と吐き捨てていたはずだった。
それなのに、今こうして彼らの熱量に直接晒されていると、胸の奥がじりじりと焼かれるような、奇妙な焦燥感と高揚感が同時に湧き上がってくるのを感じていた。
凌は紫が指さす方向を覗き込み、小さく息を吐いた。あそこなら、部屋全体を見渡せる上に、黙々と筆を動かしている部員達の邪魔にもならないだろう。
「あ、うっす。失礼します……」
誰にともなく声を描けながら、凌は部屋の隅へと移動した。
肩に掛けていた通学鞄を床にそっと下ろし、軋む音を立てないよう静かに丸椅子へと腰を下ろす。
凌が席に着いたのを見届けると、紫もまた「よし」と小さく呟き、自身の居場所へと戻っていった。
彼女の席は部屋の中央にあり、そこには大きなキャンバスが据えられている。
紫は白衣の袖を少しだけ捲り上げると、慣れた手つきでパレットといくつかの筆を手に取った。
カチャ、と絵の具のチューブが触れ合う静かな音が響く。
次の瞬間には、部長である紫の意識もまた、凌の手の届かない絵の世界へと深く沈み込んでいった。
部屋の中に流れる、濃密な絵の具の匂いと、それぞれの世界に没頭する部員達の張り詰めた呼吸。
(……静かだ)
部室の隅の丸椅子に腰を下ろした凌の視線の先では、部長の紫を含めた四人の部員達が、完全にこちらに背を向けた状態でそれぞれのキャンバスに向き合っていた。
誰一人として口を開かない。無駄な私語はもちろん、深く息を吐き出す音すらも憚られるような、強固な静寂が室内を支配している。
今、凌の耳に届いているのは、カサカサとキャンバスの目を掠める乾いた筆の音、シャッ、シャッと一定の規則正しいリズムで刻まれるデッサン鉛筆の摩擦音、そして時折、パレットの上で絵の具が練り合わせられる微かな水気を含んだ音だけだった。
(すごい……みんな、めちゃくちゃ集中してる)
凌はそんな彼らの空気感に圧倒されていた。
普段の教室での、休み時間の喧騒や、授業中のあの弛緩した空気とはあまりにもかけ離れている。
ここにあるのは、ただひたすらに自分の内側にあるものと対峙し、それを白い画面へと削り出していく、張り詰めた表現者たちの空間だった。
凌は、部員達のちょうど斜め前方に位置する席から、その横顔や背中を真剣な眼差しで静かに目で追った。
真剣に何かを創り出そうとしている人間の横顔は、素人の凌から見ても、何処か神聖で、近寄りがたいほどに美しい。
それぞれの指先から紡ぎ出される線や色が、夕暮れの光の中で命を宿していく。
絵を描くことは嫌いだった。苦手から逃げるための言い訳として「ダルい」と吐き捨てていたはずだった。
それなのに、今こうして彼らの熱量に直接晒されていると、胸の奥がじりじりと焼かれるような、奇妙な焦燥感と高揚感が同時に湧き上がってくるのを感じていた。



