君の手が動く限り、俺は隣にいたいから

 室内には、三名ほどの部員がそれぞれ一定の距離を保って座っている。ある者は巨大なキャンバスに黙々と筆を走らせ、またある者は熱心にデッサン用の鉛筆を動かしている。

 ガリガリ、シャッ、サッ――。

 静かな部屋に響くのは、紙や布が擦れる摩擦音だけ。
 驚くべきことに、突然ドアが開いて見知らぬ新入生が入ってきたというのに、誰一人として凌の方を見ようとはしなかった。
 まるで、自分の目の前にある世界以外には何も存在していないかのように、それぞれが自らの表現の中に深く没頭している。

「さあ!  皆新入生が来たよ!」

 紫は凌の肩を叩きながら、部屋の前方にある黒板の前へと彼を連れて行った。
 凛とした部長らしい声が部室全体に響き渡る。その横で、凌は三十人近い視線に晒された今朝のホームルームとは全く違う、奇妙な圧迫感を覚えていた。
 視線は向いていないのに、部屋全体の空気がじっと自分を品定めしているような、冷たい緊張感がある。

「あ、えっと……大邪魔します」

 凌は、居心地の悪さを隠せないまま、ぺこりと丁寧にお辞儀をした。
 だが、その挨拶が終わっても、部室内の空気は微動だにしなかった。
 部員三名は、相変わらず手元のキャンバスやスケッチブックに目を落としたままだ。
 見向きもしない。声を返す者もいなければ、手を止める者すら一人もいない。ただ、機械的な筆の音だけが、変わらないリズムで部屋の中に響き続けている。
 歓迎されているわけでも、明確に拒絶されているわけでもない。
 ただの「風景」として扱われているようなその異様な空間の中心で、凌はポツンと立ち尽くしながら、昼休みにあの少女が言った言葉を、再び思い出していた。

(全員…自分の世界に入ってるのか)

 彼ら量に気づかないくらい絵に没頭するのは、ある意味ゲームをしている時の凌も同じなのだろう。最も、母親に話し掛けられれば気づくから、ここまでの集中力は持ち得ていないが。

「うん。予想通り」

 紫は誰からも返事のないその状況に焦る風でもなく、むしろそれが当然であるかのように満足そうに深く頷いた。
 それから、隣に立つ凌へと視線を戻す。

「見学って言ったけど、それは活動している雰囲気を見るだけ? それとも、何か描いてみる?」

 覗き込むようにして尋ねる紫の瞳は、好奇心と期待にきらきらと輝いている。
 描く、という選択肢を提示されて、凌の脳裏には昼休みに屋上で浴びせられたあの冷たい言葉がリフレインした。

『何も知らないど素人が、簡単に他人に教えを乞おうとかしたら駄目だよ』

 あんな風に言われた直後だ。ただでさえ苦手な絵を、この張り詰めた空気の中で描く勇気などあるはずもなかった。

「えっと……。皆さんが絵を描いているところを見ててもいいっすか?」

 防衛本能に近い気持ちでそう答えると、紫は「そっか」と少しだけ残念そうに、けれどすぐにいつもの快活な笑みを取り戻してポンと手を叩いた。

「おーけー。それじゃあ、あそこの席に座りな。気が済むまでいてくれていいからね」

 紫が人差し指で示したのは、黒板側の、ちょうど窓と教壇の間にあるぽつんとしたスペースだった。