君の手が動く限り、俺は隣にいたいから

 放課後の鈍い喧騒が遠く響く特別棟の四階。
 凌は昨日と同じように、静まり返った廊下で、ただ一枚の絵の前に立ち尽くしていた。
 視線の先にあるのは、やはりあの『青空の絵』だ。
 昼休みに屋上で出会った、あの不機嫌で、どこか泣きそうな目をしていた少女の横顔が脳裏を過る。
 彼女が「他と一緒にしないで」と言い放って去っていった理由も、あの激しい拒絶の意図も、今の凌にはまだ分からない。
 それでも、このキャンバスに塗られた深い青を見つめていると、どうしても彼女の言葉の真意を確かめたいという衝動が抑えきれなかった。
 じっと絵を見つめたまま、どれほどの時間が経っただろうか。
 不意に、すぐ横にある美術室の引き戸が、ガラガラと小気味いい音を立てて開いた。
 途端に、昨日も嗅いだツンとする油絵の具の匂いと、どこか埃っぽい特有の空気が廊下へと溢れ出してくる。
 そこからひょこりと顔を出したのは、見慣れない上履きを履いた一人の人物だった。

「お、今日も来てくれた。入部希望?」

 満面の笑みを浮かべてそう言ったのは、美術部部長の綾瀬紫だった。
 大きな白衣を羽織り、小柄な身体を弾ませるようにして凌の前に立つ。
 昨日出会ったときと変わらない、太陽のように屈託のない明るい声音だった。

「いや、そういう訳じゃなくて。少し、見学に……」

 昼休みの屋上での出来事もあり、凌は少し気まずそうに視線を泳がせながら、歯切れの悪い声で答えた。
 まずは部室に足を踏み入れれば、あの屋上の少女について何か分かるかもしれない――そんな下心が、声に微かな躊躇を生ませる。

「そう。うん、いいよいいよ!  いくらでも見て行って!」

 しかし、紫はそんな凌の微細な戸惑いなど一切気にする様子もなく、嬉しそうに目を細めた。
 言うが早いか、彼女は凌の背中に回り込むと、その細い両腕で凌の肩をぐっと抱き竦める。

「うわっ、ちょっと、先輩……!?」
「いいからいいから、遠慮しないで!」

 男子高校生としては少し小柄な凌だが、それでも自分より背の低い先輩に後ろから押されるのは奇妙な感覚だった。
 紫は半ば強引な力で抵抗する間も与えず、凌の身体を美術室の中へと押し入れる。
 一歩足を踏み入れた部室の中は、廊下よりもさらに濃密な油の匂いに満ちていた。
 広い室内には、いくつものイーゼルやキャンバスが乱雑に、けれど何処か規則性を持って並べられている。
 西日が斜めに差し込む窓際や、壁際に置かれた石膏像の白い肌が、オレンジ色の光を浴びて長い影を床に落としていた。
 そして、その空間のあちこちには、先客の姿があった。