君の手が動く限り、俺は隣にいたいから

 雲ひとつない快晴の昼休み。遮るもののない屋上の中心で、凌は自分の衝動に突き動かされるまま、目の前に座り込む見ず知らずの先輩へと頭を下げていた。
 風に飛ばされていく数々のスケッチには目もくれず、ただ、彼女の描く圧倒的な世界観に心を奪われていた。

「俺に絵を教えてくれませんか」

 真っ直ぐに注がれた凌の言葉に、彼女は毒気を抜かれたように小さく口を開けた。

「え……?」
「俺、先輩みたいに絵を描けるようになりたいんです。だから、教えてください!」

 絵は大嫌いだったはずだ。ペンすら持ちたくなかったはずだ。それなのに、目の前の少女が纏う圧倒的な「青」の世界に触れた瞬間、凌の胸の奥で燻っていた何かが完全に弾けていた。
 自分でも驚くほどの熱量が、声となって口から飛び出していく。
 今度は、彼女が困惑する番だった。
 いきなり屋上に現れて、勝手に絵を覗き見して、挙げ句の果てには突然の弟子入り志願。
 目の前にいる、まだあどけなさの残る新入生の男子生徒が一体何を考えているのか、彼女の理解の範疇を完全に超えているようだった。
 遮光するもののない屋上の上で、しばらくの間、二人の視線が真っ向からぶつかり合う。
 張り詰めた沈黙が流れた後、彼女は観念したように大きなため息を吐き出し、凌からふいっと目を逸らした。その瞳には、先ほどまでの驚きではなく、明らかな落胆の色が混じっている。

「……君、今までまともに絵を描いたことないでしょ」

「え?  あ、まあ……はい」

 図星を突かれ、凌は一瞬言葉を詰まらせる。彼女は冷ややかな声音のまま、冷淡に言葉を続けた。

「何も知らないど素人が、簡単に他人に教えを乞おうとかしたら駄目だよ」
「え、で、でも……!  先輩みたく絵が上手い人に教えてもらいたいって思うの、普通じゃないんすか?」

 必死に食い下がる凌。しかし、「普通」という言葉を使った瞬間、彼女の眉がピクリと不快そうに跳ね上がった。

「まあね。絵が描けないと思い込んでいる人ほど、そうやって手っ取り早く上手くなる道を探そうとする。でも――」

 彼女はそこで言葉を区切ると、射抜くような鋭い視線を再び凌へと向けた。
 その目の奥にある冷徹な光に、凌は思わず気圧されそうになる。

「少なくとも私は、絵が上手いなんて言葉で、他と一緒にしないでほしいな」

 冷たく突き放すような響きだった。
 彼女は胸元で抱えていたスケッチブックをパタンと乱暴に閉じると、地面に広がっていた画材を文字通り掻き集め始める。
 カチャカチャと鈍い金属音を立ててパレットや筆を片付けるその手つきは、何処か抑えきれない苛立ちを孕んでいて、酷く雑だった。
 これ以上ここに一秒たりとも留まりたくない。そんな明確な拒絶の意思が、彼女の背中から痛いほど伝わってくる。
 全ての画材を大きめのトートバッグの中に無理やり詰め込むと、彼女は乱暴に床を蹴って一気に立ち上がった。
 そして、唖然としてコンクリートの上に座り込んでいる凌の横を目も合わせずにすたすたと通り過ぎていく。

「あ、ま、待って!」

 凌は慌てて立ち上がり、遠ざかっていく背中に向けて叫び声を上げた。
 けれど、その必死な静止の声も虚しく、彼女が一度も振り返ることはなかった。
 鉄製の重い扉がバタンと屋上全体に響き渡るような大きな音を立てて閉まり、後にはただ乾いた余韻だけが残る。
 凌は再び、雲ひとつない青空の下にぽつんと一人きりで取り残された。
 吹き抜ける風が、凌の火照った顔を冷やしていく。

『他と一緒にしないでほしい』

 彼女が残したその言葉が拒絶の冷たさとは裏腹に、凌の耳の奥にいつまでも熱く残り続けていた。