君の手が動く限り、俺は隣にいたいから


「いい。余計なことしないで」

 低く、何処か冷徹な響きを含んだ声が、凌の足を完全に止めた。

「でも、せっかく描いた絵が……」

 納得がいかず、凌は食い下がるように声を上げる。
 彼女が今まさに、あれほど真剣な眼差しで、迷いのない筆遣いで命を吹き込んでいたキャンバスの数々だ。
 素人目に見ても、それがどれほど熱量を注がれて作られたものなのかは分かった。
 それがただの塵のように風に飛ばされ、失われていくのを黙って見届けるなんて、凌にはどうしてもできなかった。
 しかし、そんな凌の焦りとは裏腹に、彼女は感情の起伏を一切感じさせない声で淡々と言い放つ。

「どうせ全部失敗作だから。わざわざ拾うことに時間を割きたくないの」

 素っ気なく答えた彼女は、抱えていたスケッチブックの隅に、今しがた描いていた途中の筆先をぽとりと落とした。
 パレットの上の混ざり合った絵の具が、彼女の指先を小さく汚す。
 口元を一文字に結び、飛び去っていく絵の具の跡を冷ややかに見つめる彼女の横顔には、強がりの奥に隠しきれない、ひどく深く、痛切な悲しみが滲み出ていた。
 何も言えなくなった凌は、ただその張り詰めたような彼女の姿を見つめることしかできなかった。
 激しかった突風が、嘘のようにゆっくりと凪いでいく。
 静寂が戻ってきた屋上で、彼女はふいに顔を上げ、凌のことをじっと見上げた。
 その大きな瞳には、先ほどから変わらない不機嫌さと、警戒心の強い不審さが複雑に入り混じっている。

「君、見たの?」
「え? 何を?」
「部室の前に飾ってる絵だよ。さっきの言い方からして、そうみたいだけど」

 冷たい声音の中に、僅かながら探るような響きが混じる。

「……やっぱり。あの絵は、先輩が描いたものだったんっすね」

 腑に落ちた、というように凌は小さく息を吐いた。
  あの、周囲の喧騒からぽっかりと切り離されたような、寂しくて、けれど吸い込まれそうに綺麗だった青空。
 そして今、目の前で自分の描いた作品を「失敗作」と吐き捨てながら、泣きそうなほど悲しい目をしている少女。
 その二つのピースが、凌の中でカチリと音を立てて噛み合った。
 凌はもう一度、その場にどさりと膝を着く。
 今度は彼女の持つスケッチブックではなく、彼女の真っ直ぐな瞳を、正面から真っ直ぐに見つめ返した。