君の手が動く限り、俺は隣にいたいから

 キィンコォン、カンコォン……。
 待ち望んでいた四時間目の終了を告げるチャイムが、教室内に轟いた。
 その音を合図に、静まり返っていた教室が一気に沸き立つ。
 机を引き摺る音、教科書を片付ける音、そして「購買急ごうぜ!」と廊下へ飛び出していく賑やかな声。
 そんな喧騒を何処か他人事のように聞きながら、凌は机の横に掛けていたカバンから弁当箱と水筒を取り出した。
 クラスメイトたちがそれぞれグループを作り、あるいは教室を出ていく様子をぼんやりと眺める。
 いつもなら自分もその流れに身を任せ、スマホをいじりながら適当に時間を潰すところだった。
 けれど、今日の凌の目的は別の場所にある。
 スッと席を立ち、弁当箱と水筒を抱えたまま教室を出た。
 購買へと向かう人の流れに、最初はなんとなく沿って廊下を進む。しかし、中央階段の手前で凌はすっと列を外れ、東側の古い階段へと足を向けた。
 上へ進むにつれて、徐々に人気が無くなっていく。すれ違う生徒の姿も消え、自分の上履きがコンクリートを鳴らす音だけが響き始めた。
 三階を過ぎ、さらに階段を上る。
 辿り着いた最上階の踊り場には、ぽつんと一枚の重扉が佇んでいた。
 『立入禁止』の古びたプレートが下がっているが、鍵は掛かっていないのか、ドアノブの隙間から微かに外の空気が漏れ出している。
 初めての場所に、凌は少しだけ躊躇した。
 本当に進んでいいのだろうか。もし誰かに見つかったら、入学早々ひどく怒られるかもしれない。
 鉄製の扉へ伸ばしかけた手が、空間に一瞬止まる。

(いや、ここまで来て戻るのも格好悪いしな……)

 凌はふっと顔を上げた。伸ばしかけていた手で、冷たいドアノブをしっかりと握り締める。
 ぐっと力を込めて押し開くと、バカン、と重い金属音が響いた。
 次の瞬間、外からの猛烈な突風が思いっきり凌の身体へとぶつかってきた。
 突き抜けるような外の明るさと、容赦なく視界を奪う強い風。凌は思わず顔を顰め、きゅっと目を瞑った。
 数秒して、徐々に風が凪いでいく。ゆっくりと目を開けた凌の視界に、世界が飛び込んできた。
 そこは、遮るものの何一つない、雲ひとつない快晴の世界だった。
 あまりの眩しさに、凌は顔の前に反射的に手を掲げ、指の隙間からその空を見上げる。
 一歩、コンクリートの屋上へと踏み出した。
 優しくなったそよ風が、凌の髪を柔らかく靡かせる。胸がすくような開放感に包まれながら、辺りを見渡しつつ、ゆっくりと歩き出す。

「気持ちー……」

 思わず、本音が口から漏れ出していた。
 両手を大きく広げ、誰もいない屋上からの、澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込む。
 朝からずっと曇っていた表情が、微かに、けれど確実に明るく解れていくのが分かった。
 学校の中に、こんなに自由で静かな場所があったなんて知りもしなかった。
 さて、何処でご飯を食べようか。
 フェンスの際か、それとも貯水タンクの影か。場所を探すために再び歩き出そうとした、その時だった。
 凌の視線が、ある一点に吸い寄せられたままピタリと止まった。
 誰もいないと思っていた屋上の隅。
 そこには、油絵具の箱やパレットといった画材を乱雑に辺りに広げ、無防備に床に座り込んでいる人物がいた。
 その人物は、膝の上に大きなスケッチブックを担ぐようにして抱え、細い指で握った筆を、天高く、まるで太陽を狙うように空へと掲げている。
 じっとその筆先を見つめたかと思うと、今度は掲げていた筆をスケッチブックの上へと戻し、迷いのない手つきでサッ、サッと筆を走らせ始めた。
 風の音に混じって、紙が擦れる微かな音がここまで聞こえてきそうだ。
 その人物は完全に自分の世界に没頭しており、凌が屋上へやってきたことにも、今こうして見つめられていることにも、気づく様子は微塵もなかった。