君の手が動く限り、俺は隣にいたいから

 しかし、立ち上がったところで答えが湧き出てくるはずもない。
 黒板を見つめてみるが、そこに並ぶ数式や文字は、まるで理解不能な呪文のようにしか見えなかった。
 そもそも、教科書の何ページを開いているのかすら分からないのだ。
 沈黙が教室を支配する。周りの生徒達の、クスクスという小さな忍び笑いが耳に届き、凌の頬が急速に熱くなっていく。
 
「……あ、えっと……」
 
 頭を掻きながら、視線を泳がせる。何も答えられない凌の様子を見て、教科担当の教師はあからさまに呆れたような息を吐いた。
 持っていた教科書を、パサリと小さな音を立てて教卓に置く。
 
「ここは次の進級テストに出る大事なところですから、ちゃんと聞いておかないといけませんよ。入学したばかりで気が緩んでいるのかもしれませんが、授業には集中しなさい。……もういいです、座ってください」
「はい……。すんません」
 
 凌は小さく肩を窄め、項垂れながら席に着いた。
 椅子の背もたれに体重を預けると、自己嫌悪と気まずさがいっぺんに押し寄せてくる。
 これ以上、黒板に視線を向ける気力も失せ、凌はそのまま机に深く顔を伏せた。
 片側の頬を木製の天板に押し付けながら、やり場のない視線をすぐ横の窓の外へと向ける。
 四月の澄んだ風が開け放たれた窓から吹き込み、凌の髪を優しく揺らした。
 遮るもののない窓の外には、何処までも高い、圧倒的な青空が広がっていた。
 ぽつぽつと浮かぶ白い雲が、ゆっくりと時間をかけて形を変えていく。
 お腹の虫が小さく鳴いたが、それすらも今の凌にはどうでもよかった。
 
(……あの絵に、似てるな)
 
 眩しそうに目を細めながら、凌はぼんやりとその青を見つめた。
 昨日、美術室前の廊下で自分を立ち止まらせた、あの屋上からの青空の絵。
 今目の前にある本物の空は、あのキャンバスに描かれていた景色と、驚くほどよく似ていた。
 
(――あっ、そういえば)
 
 遮光カーテンが揺れる影を見つめていると、脳裏に、夕焼けに焼かれていた先輩の横顔が鮮烈に蘇ってきた。
 
『明日でも明後日でも、いつでもいい。気が向いた時に、屋上へ行ってみて。きっと、君にとっていいことがあるから』
 
 耳の奥で、紫のあの鈴が鳴るような声が再生される。
 その言葉は、退屈な日常の底に沈んでいた凌の心を静かに、けれど強く揺さぶった。
 気が向いた時に、屋上へ。
 
 「いいこと」が何なのかは分からない。ただの気まぐれな勧誘で、行ったら誰もいないかもしれない。
 それでも、昨日からずっと胸の奥に引っ掛かっているこのモヤモヤとした熱の正体を、確かめずにはいられなかった。
 凌は微かに伏せていた顔を上げ、背筋を伸ばした。
 もう、シャーペンを回す手は止まっていた。真っ直ぐと窓の外の青空を見つめるその瞳には、先ほどまでの気怠さは消え失せ、確かな決意の光が宿っている。
 
(……やっぱ、行くべきだよな)
 
 この授業が終われば、待ちに待った昼休みだ。
 チャイムが鳴ったら、購買へ走るクラスメイト達を横目に、あの階段の一番上を目指そう。
 凌は心の中でそう呟き、遠く広がる青い世界へと、静かに視線を投げかけ続けた。