君の手が動く限り、俺は隣にいたいから

 彼女は凌の肩からそっと手を離すと、一歩後ろへと下がり、真っ直ぐに凌の瞳を見つめる。
 窓から差し込む濃い夕焼けの光が、彼女の左頬を赤く焼き、長い睫毛の影を落としていた。

「君にひとつ、いいことを教えてあげる」
「いいことっすか?」

 何処か現実味のない空気に呑まれながら、凌は生唾を飲み込んで聞き返す。
 彼女は悪戯っぽく、けれど何処か祈るような真剣さを孕んだ瞳で微笑んだ。

「明日でも明後日でも、いつでもいい。気が向いた時に、屋上へ行ってみて。きっと、君にとっていいことがあるから」

 言葉の意味を咀嚼する間もなく、彼女はひらりと凌に背中を向けた。
 軽やかな足取りで数歩進み、廊下の角へと消えかける寸前、彼女はくるりと振り返る。長い髪が夕日の光を浴びてきらりと揺れた。

「私、美術部部長の綾瀬紫(あやせゆかり)。いつでも入部、待ってるからね」

 今度こそ、彼女の姿は壁の向こうへと消えていった。
 静まり返った廊下に、凌は一人、取り残される。
 ガタゴトと遠くで響く電車の音。何処かの部活が吹くトランペットの不協和音。
 そんな現実の音が急に鼓膜へと戻ってくる中、窓の外を一羽のカラスが低く鳴きながら横切っていった。

(……屋上)

 もう一度、壁に飾られた『青空の絵』に視線をやる。
 絵のことは分からない。ペンだって持ちたくない。部活なんてダルいだけのはずだった。
 なのに、胸の奥が、熱を帯びたようにドクドクと脈打っている。
 まだ何が始まるのかも、自分がどうなっていくのかも分からない。けれど、自分の内側で、固く閉ざされていた何かの歯車が、音を立てて回り始めたことだけは確かに分かった。
 夕闇が迫る廊下で、凌はしばらくの間、動けずにいた。

「……行くわけねぇだろ、めんどくせぇ」

 誰もいない廊下に、自分の声が虚しく響く。
 口ではそう吐き捨てながらも、凌の手は無意識にブレザーのポケットの中で、さっき配られた部活紹介の冊子を握り締めていた。
 あの不自然なほど白い、美術部のページ。
 絵を描くことが何よりも嫌いだったはずなのに、今はその理由すら、夕暮れの光の中に溶けて消えていくような奇妙な感覚に陥っている。

「おい、そこの一年生。何してんだ」

 不意に階下から上がってきた、厳しい声が静寂を破った。
 見れば、腕章を巻いた生活指導の教師が、階段の踊り場から不審そうに凌を睨みつけている。

「あ、すんません。今帰ります」

 凌は慌ててペコリと頭を下げると、逃げるように階段へと歩き出した。
 カツカツと上履きの音を響かせながら階段を下りる間も、心臓の鼓動はまだ少し速いままだった。
 夕日に染まる校舎を出ると、心地良い春の夜風が凌の火照った顔を掠めていく。
 校門へ向かう途中、凌はふと足を止めると振り返って校舎を見上げた。
 四階のさらに上。
 普段は立ち入り禁止のはずの屋上へと続くフェンスが、赤紫色の空に黒いシルエットとなって浮かび上がっている。

「……明日、行ってみるか」

 誰に言うでもなく呟いた言葉は、風にさらわれて消えた。
 けれど、凌の足取りは、登校したときのあの「だりぃ」と腐っていたものとは、明らかに違っていた。