雨は嫌いですか、私は好きです

 リビングに入ると、温かい匂いがふわりと広がった。
 味噌の香りと、焼いた魚の少し香ばしい匂い。それに混ざる、何処か安心するような空気。
 テーブルの上には、すでに夕食が並んでいる。
 湯気の立つ味噌汁に、焼き魚と小鉢。いつもと変わらない、見慣れた食卓。
 けれど、その“いつも通り”が今日はやけに遠く感じた。

「遅いぞ、雨音」

 席に座っていた父が、新聞を半分だけ畳んだまま顔を上げる。

「手、洗ってきなさいよ」
「……うん」

 短く返事をして、ぼんやりとした意識のまま洗面所に向かう。
 蛇口を捻ると、溢れ出した水の音がやけに大きく聞こえた。薄暗い洗面所中に響き渡る。
 冷たい水に触れても、頭の中のざわつきは消えない。
 振り返らなかった背中。
 届かなかった声。
 それらばかりが、何度も繰り返し頭の中に浮かぶ。
 大げさなくらい手を洗って、水を止めると手を拭いてリビングに戻った。
 椅子を引いて座り、「いただきます」と形だけ口にする。
 箸を持ち、料理に視線を落とす。けれど、白米にも味噌汁にも焼き魚にも箸は伸びない。
 一口目を取ろうとして、そのまま固まった。

「……雨音?」

 母の声が聞こえて顔を上げると、心配そうな視線とぶつかる。

「どうしたの?」
「え……」

 突拍子もなくそう問われて、雨音は言葉に詰まる。
 なんでもない、と言おうとしたけれど、喉まで言葉が出掛かって止まった。

「いや、その……」

 曖昧に濁し、小さく摘み取った焼き魚を適当に口へ運ぶ。
 震える箸を口に入れて噛んでも、まともに味が分からなかった。
 向かいに座る両親が不審げな目を向けていることにすら、雨音は意識を向けられない。

「元気ないな。学校で何かあったか?」

 父の問いに、「……別に」と反射的に答える。それ以上聞かれないための、いつもの言葉。
 けれど、二人は視線を外さずに真剣な顔を保っていた。

「本当に? 全然食べてないじゃない」

 心配が滲む声音で言われて、雨音ははっと顔を上げた。
 すぐに視線を落とすと、ほとんど手つかずの皿が目に入る。味噌汁だけ辛うじて湯気が立っていた。

「……ごめん」

 もう一口取るが、口に入れても喉に引っ掛かる。それを無理に飲み込んで、黙り込んだ。
 食器の音だけが続く中、自分だけがそこからずれているよう。

「……ねえ、雨音。本当に何もない?」

 責めるわけでもなく、ただ確かめるような声。けれど、その優しさが逆に誤魔化すことを許してくれない。
 正直に言うべきか迷う。二人に言ったとて、何かが解決するわけではない。
 けれど、胸の中の重さが消えないままであることも事実。このまま黙っていても、きっと考え続けるだけだと分かってしまう。
 箸をそっと置くと、小さな音がやけに大きく響いた。

「……あの」

 少しだけ震える声で、言葉を探しながら続けようとした。